明顕山 祐天寺


公開日:2024年8月1日  

「蟪蛄春秋を識らず(けいこしゅんじゅうをしらず)」 曇鸞大師『往生論註』

先月中ごろ「今年はセミの鳴き声が少ないなぁ。今年は猛暑で、セミも夏バテかな?」と思っておりましたが、先月末になって例年通りに蝉しぐれが聞こえるようになりました。本来、セミが鳴く時季は7月下旬からだそうです。今年は6月下旬から最高気温が30℃を超える日が続いたために、私が勝手に「夏本番=セミが鳴く時季」だと思って勘違いをしたというわけでございます。私たち人間の感覚は曖昧であることを改めて感じました。

「蟪蛄(けいこ)」とは、セミのことです。セミは、「春秋を識らず」。春や秋を知らないということです。セミは、春の桜も、色づく秋の穂も、冬の雪景色も見ることなく、ただ夏の厳しい暑さの中を一生懸命に鳴いて、その命を終えていきます。しかし、セミは見ることがなかったとしても、春や秋、そして冬という季節は存在します。また、セミは夏しか知らないわけですから、自分が生きている季節が、夏であることさえも分かりませんし、その夏のことを全部知り尽くしているわけでもありません。

私たちは今、科学の合理的な物の見方の積み重ねによって、より豊かな生活を享受できるようになりました。その一方、現代社会は目に見えるものばかりを追い求めて、結果として「目に見えない」ものは信じなくて良いという風潮があります。

浄土宗の教えは、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えた者を、一切の苦しみのない極楽浄土に必ず救いとるぞという阿弥陀さまの大いなる慈しみのお誓いに全てを委ね、お念仏の日暮らしを送ってまいりましょう、というものです。阿弥陀さまも極楽浄土も「目で確かめられるもの」ではありません。

この世は、どれほど楽しいことがあっても、求めても得られない、思い通りにならない、苦しみに満ちあふれた世界です。

しかし、この苦しみの世に生まれ、今を生きているからこそ、お念仏の教えに出会うことができるのであり、その教えに出会うことによって苦しみを乗り越える道を知ることができます。

お念仏の教えは「目で確かめられるもの」ではありません。しかしながら、この世の在り様をしっかりと見据え、自身の命をしっかりと見つめ、お念仏の教えの本当の有り難さを感じ、一歩一歩、人生をお念仏とともに歩んでいくこと。それこそが私たちに安らぎのある人生を与えてくれるものと信じております。

合掌

法務部 竹村崇邦


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