仁王門は享保20年(1735)に5代将軍徳川綱吉(つなよし)の養女竹姫(たけひめ)より寄進されました。目黒区指定有形文化財(建造物)です。
祐天寺2世祐海(ゆうかい)上人が揮毫(きごう)した扁額(へんがく)には、祐天寺の山号「明顕山(みょうけんざん)」と記されています。
これは祐天上人の法号「明蓮社顕誉上人(みょうれんじゃけんよしょうにん)」から取られたものです。
仁王門の右側には口を開いた阿行(あぎょう)像、左側には口を結んだ吽行(うんぎょう)像が睨(にら)みをきかせています。
門の上方には、それぞれの方角を意味する十二支の彫刻があります。例えば、門の未申(ひつじさる)の方角、つまり南西側には、その方角に相当する羊と猿の彫刻があしらわれています。
阿弥陀堂は享保9年(1724)に5代将軍徳川綱吉(つなよし)の養女竹姫(たけひめ)より寄進されました。江戸時代中期の三間四面(さんけんしめん)堂を知ることが出来る貴重な建造物として目黒区指定有形文化財(建造物)となっています。
正面には祐天寺2世祐海(ゆうかい)上人が寛保3年(1743)に揮毫(きごう)した扁額(へんがく)がかけられています。
堂内に祀(まつ)られている阿弥陀如来(にょらい)坐像は、前年の享保8年(1723)に竹姫より寄進されました。仏師は小堀浄運(こぼりじょううん)です。胎内には竹姫が書写した名号一万遍が納められ、須弥壇(しゅみだん)の床下には竹姫の御髪(おぐし)が納められています。
江戸の商業問屋仲間が建立した海難供養碑です。近世における商業経済史、海上輸送史、海難史研究の貴重な資料として目黒区指定有形文化財(歴史資料)となっています。
灘目(なだめ)の海難供養碑は、灘(兵庫県神戸市灘区から西宮市にかけての海岸地帯)の酒樽を江戸へ運ぶ途中の相模湾で遭難した観力丸と永寿丸の犠牲者を弔うため、江戸の樽廻船(たるかいせん)問屋仲間が寛政8年(1796)に建立しました。祐天寺6世祐全(ゆうぜん)上人の名号が刻まれています。
白子組(しろこぐみ)の海難供養碑は、遠州灘で遭難した広寿丸の犠牲者を弔うため、江戸の白子組木綿問屋仲間が文政4年(1821)に建立しました。白子組綿問屋仲間は呉服屋を母体として木綿などを取り扱い、白子港(三重県鈴鹿市)を輸送拠点としていました。祐天寺9世祐東(ゆうとう)上人の名号が刻まれています。
表門は祐天上人の100回忌にあたる文化14年(1817)に建てられ、格式高い門構えであることから国の登録有形文化財(工作物)となっています。
この門が面している駒沢通りは、江戸時代は相州道(そうしゅうどう)と呼ばれ、将軍が鷹狩(たかが)りをする際にお通りになりました。
創建当時は冠木門(かぶきもん)という屋根のない形の門でしたが、のちに高麗門(こうらいもん)という現在のような屋根のある形の門になりました。
門にかけられている扁額(へんがく)は、大本山増上寺85世中村康隆台下(こうりゅうだいか)が揮毫(きごう)したものです。台下はのちに総本山知恩院(ちおんいん)86世門跡(もんぜき)となりました。
地蔵堂は天明8年(1788)に建立され、寛政12年(1800)に増築して現在の姿となりました。正面の扁額(へんがく)には、祐天上人の本地身(ほんじしん)の地蔵菩薩(ぼさつ)像が祀(まつ)られていることを示す「開山本地堂(かいさんほんちどう)」と記されています。
本尊の地蔵菩薩像は寛政9年(1797)に信州松本の光明院より遷座(せんざ)されました。延命(えんめい)と火消(ひけ)しのご利益があるとして信仰を集めました。
特に江戸町火消(えどまちびけし)から信仰を寄せられ、地蔵堂外陣(げじん)の天井には町火消各組の纏(まとい)が描かれています。
また、嘉永4年(1851)に建立された地蔵堂の門の天井にも纏7種が陽刻(ようこく)されています。
江戸町火消の崇敬(すうけい)を伝える地蔵堂は国登録有形文化財(建築物)、門は国登録有形文化財(工作物)となっています。
創建時の本堂は明治27年(1894)の火災により焼失したため、明治31年(1898)に現在の本堂が再建されました。
再建にあたっては、江戸時代末期に建てられた徳川家の位牌を祀(まつ)る御霊殿(ごれいでん)を曳(ひ)き移して本堂の一部としました。
そのため、堂内に華麗な破風(はふ)があるという珍しい建築構造となっており、国の登録有形文化財(建築物)に登録されました。
内々陣(ないないじん)には祐天上人坐像(東京都指定文化財)を中心に、右脇間に祐天寺を起立(きりゅう)した2世祐海(ゆうかい)上人坐像(目黒区指定有形文化財)、左脇間に中興の6世祐全(ゆうぜん)上人坐像が祀られています。
書院とは居間兼書斎として使われる建物のことで、祐天寺では主に法事の控え室として利用されています。現在の書院は明治28年(1895)に再建されました。
普段は襖(ふすま)によって6つの部屋に仕切られていますが、すべての襖を取り外すと75畳の1室となり、都内では珍しい大規模な書院です。
木目を生かした床柱(とこばしら)や祐天寺の寺紋(じもん)である鐶一紋(かんいちもん)の釘隠(くぎかく)しなど、随所に工夫が凝(こ)らされています。また、大振りな床の間や隣の違(ちが)い棚は本格的な書院造の風格を備えており、貴重な建物として国の登録有形文化財(建築物)となりました。
水屋は参詣に訪れた方が手を洗い、口をすすいで身を清める場所です。祐天寺13世祐興(ゆうこう)上人が住職を勤めていた弘化3年(1846)に建立されました。正面には江戸時代後期の書家・龍眠(りゅうみん)による「浄水」の文字が刻まれています。
天井には龍の丸彫りが施(ほどこ)されています。
蟇股(かえるまた)には力士が鎮座しており、その周りには祐天寺の寺紋(じもん)である鐶一紋(かんいちもん)をあしらった金具が使用されています。要所の彫刻がみごとであることから国の登録有形文化財(工作物)となりました。
精進殿(しょうじんでん)は、主に子どもたちへの教化活動を行う場として、平成28年(2016)に再建しました。毎夏、小学生を対象とした修行道場である「少年少女精進道場」が行われています。
また、檀家の皆さまの葬儀式場としても使用しています。
入口には、仏舎利殿から移設したお釈迦(しゃか)様の壁画があり、訪れる方を優しく迎えてくれます。
2階は和室になっており、「親子のひろば」や「祐天寺日曜学校」などで活用されています。
祐天上人が出家を決意した際に(誕生の際との説もあり)白狐(びゃっこ)が三声鳴いたと言われており、その白狐を祐天上人の守護神として祀った随身稲荷がこの稲荷社の前身です。のちに松黒、富山、天白、妙雲の四社が合祀(ごうし)され、現在の五社稲荷となりました。
正一位(しょういちい)五社稲荷大明神として五穀豊穣(ごこくほうじょう)、家内安全、厄災消除(やくさいしょうじょ)などのご利益があると信じられ、毎年2月の初午(はつうま)の日には祈願法要が行われています。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは『宝篋印陀羅尼(だらに)経』を納める塔のことです。この塔に一香一華を供えて礼拝すればあらゆる罪障(ざいしょう)が消滅し、この世では厄難(やくなん)から逃れて長寿を得ることができ、死後は必ず極楽に生まれ変わると信仰されました。
基礎石の格狭間(ごうざま)に獅子の彫刻があしらわれるなど装飾性が高く、目黒区内では最大規模の宝篋印塔です。また、塔身部には種子の代わりに祐天上人、祐海(ゆうかい)上人(祐天寺2世)、祐全(ゆうぜん)上人(同6世)、祐應(ゆうおう)上人(同8世)の名号が彫られています。
塔前の水鉢の穴をくぐった子供は「はしか」に罹(かか)りにくくなると言われ、百日咳や疳(かん)の虫封じにご利益がある表門脇の子まもり地蔵で成長を祈願したあと、水鉢の穴くぐりをする風習が現在も続いています。
仏舎利殿は平成29年(2017)に建立されました。お釈迦(しゃか)様の舎利(しゃり)(遺骨)が納められています。
1階は宝物展示室となっており、宝物展(不定期)を開催しています。
正面の大絵馬(おおえま)は、累(かさね)伝説を題材として昭和61年(1986)に月岡栄貴(つきおかえいき)画伯らによって描かれました。
地蔵菩薩(ぼさつ)像は祐天上人への報恩のため、祐天上人300年御遠忌(ごおんき)法要が行われた平成29年(2017)5月に開眼(かいげん)されました。作者は大仏師の長岡和慶(わけい)師です。祐天寺地蔵堂の本地身(ほんじしん)地蔵菩薩像を石で模刻したものです。
背中には祐天上人の名号が刻まれています。
鐘楼(しょうろう)と梵鐘(ぼんしょう)は6代将軍徳川家宣(いえのぶ)の17回忌追福(ついふく)のため、享保14年(1729)に正室の天英院(てんえいいん)から寄進されました。
そして、家宣の27回忌にあたる元文3年(1738)からは「時の鐘」として撞(つ)くことを命じられ、現在でも朝6時と昼の時刻を知らせています。梵鐘は祐天寺と徳川家との関係を今に伝える歴史資料として目黒区指定有形文化財(工芸品)に指定されました。鐘楼は国の登録有形文化財(工作物)です。
また、12月31日の除夜(じょや)の鐘は一般の方も撞くことができます(毎年12月24日の午前9時より寺務所受付にて整理券を配布いたします)。
祐天上人が累(かさね)という女性の怨霊(おんりょう)を成仏得脱(とくだつ)させた伝説は、歌舞伎をはじめとするさまざまな芸能作品の題材となりました。このかさね塚は、累物舞踊の1つである『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』(4世鶴屋南北(つるやなんぼく)作『法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)』の一幕)が復活上演され好評を博したことを記念して、大正15年(1926)に6世尾上梅幸(おのえばいこう)、15世市村羽左衛門(いちむらうざえもん)、5世清元延寿太夫(きよもとえんじゅだゆう)らによって建立されたものです。
塚には法蔵寺(ほうぞうじ)(茨城県)にある累一族のお墓の土が分祀(ぶんし)されています。
祐天上人の本地身(ほんじしん)が地蔵菩薩(ぼさつ)であることを記した地蔵縁起碑は、寛政9年(1797)以降に建立されました。
中央には祐天寺6世祐全(ゆうぜん)上人の名号が刻まれ、その右には光明院(長野県松本市)より祐天上人本地身地蔵菩薩像が遷座(せんざ)した経緯、左には深川本誓寺(ほんせいじ)(江東区)の石地蔵尊の話が刻まれています。
地蔵堂本尊の本地身地蔵菩薩像は延命(えんめい)と火消(ひけ)しのご利益があると信仰され、特に江戸町火消が信仰を寄せたことから、裏面には江戸町火消の組織図が彫られています。
江戸町火消の伝統は、祐天寺との関係とともに江戸消防記念会へと受け継がれ、現在でも毎年4月6日には縁起碑の前で木遣(きや)りが奉納されています。
寺務所(じむしょ)の受付時間は午前9時から午後5時までとなっております。法要やご祈願のお申し込み、ご朱印の受付はこちらで承ります。また、お線香やお守り、おみくじの頒布もしておりますので、どうぞお気軽にお立ち寄りください。