明顕山 祐天寺

公開日:2023年7月1日  

象のように耐え忍べ

祐天寺法務部 黒澤崇弘

 

皆様はその場その時の突発的な欲情に駆られて行動し、後悔をしたということはありませんでしょうか。

 

私は昔辛い物を食べることが好きでした。理由はまったくわからないのですが、普通に生活をしていると突然、辛い物が食べたい衝動に駆られるのです。居ても立ってもいられなくなり、スマホで辛いラーメン屋を調べると、辛い味を想像し口内で大量の唾液が分泌されます。(これはレモンや梅干しを見ただけで唾液がでてくる、といったような条件反射の一つだそうです。)そして目当てのラーメン屋に行き、激辛のラーメン完食をチャレンジするということがよくありました。

しかし、食べているときはまだ良いものの、食べた数時間後から極度の腹痛に悩まされるのです。お腹を痛めているときは「もう二度と辛いものは食べない」と心に誓います。しかし、喉元過ぎればなんとやら、1、2週間ぐらい経つとまた同じ衝動が体の底からこみあげてくるのです。

 

「自分にとって悪い結果を招くと理解しているのに、それを行うことをやめられない」というのは、程度はともかくとして、私たちが人間である以上一度は経験することではないでしょうか。食欲・性欲・睡眠欲といった生理的な欲望をはじめ、怒り・悪口・承認欲求といった欲望もあるでしょう。人それぞれ違いはあれ「わかっていてもやめられない」のが欲望のやっかいなところではないでしょうか。

 

仏教をひらかれたお釈迦様は、悟りを妨げる心の働き「煩悩」と呼びます。「煩悩」という字は「煩わせ悩ます」と書きます。まさに、衝動的な欲求を抑えられず激辛ラーメンを食べたのち、お約束通り辛み成分の炎に胃腸が焼かれ苦しむ私には、この言葉がぴったりでしょう。お釈迦様は、私たちの行き過ぎた欲求がやがては自らを苦しませ悩ませる、と看破されたのです。生理的な欲求を満たすことは真の安息ではなく、修行によって体と心を整え最終的に悟りの境地に達することが真の安息であるとおっしゃるのです。

 

そこでお釈迦様は私たち人間の心を象に例えます。

馴らされた象は戦場にも連れて行かれ、王の乗り物となる。世間からの誹(そし)りを忍び、自らをおさめた者は人々の中にあっても最上の者である。

この心は、以前には望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今や私はその心をすっかり抑制しよう。象使いが鉤(かぎ)を持って、発情期に狂う象を全く押さえつけるように。1

 

タイの象使いが、長い鉤を使って象のツボを刺激しコントロールしている様子を見たことがあるでしょうか。お釈迦様は、発情期を迎え暴れ狂う象を制御するように、自らの欲求に狂う心を制御せよ、とおっしゃっています。そして、良く飼いならされた象は王様の乗り物として重用されるように、周囲から罵られても、良く整えられ制御された心というものは人々のなかで最上のものである、とおっしゃっています。

もちろん、悟りを開いたお釈迦様のように、完全に自らの心を制御するというのは大変困難なことです。しかし、衝動的な欲望に駆られたとき、象使いが象を制御するように、心を整えることを心掛けていくのが大切なのではないでしょうか。

 

1 :中村元 訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』(岩波書店、1987年)55-56頁。※意味が取りやすいよう一部原文を変えています。


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