明顕山 祐天寺

公開日:2021年10月2日  

「お父さん お母さん 私を生んでくれてありがとう」

 

法務部:脇川公暢

今から十数年前に私が結婚した時に、妻が両親にあてて読みあげた手紙の一文を、今回掲示版に書かせていただきました。

考えてみると、このような言葉を耳にする機会というのは、結婚式の際、新婦が両親に読む手紙の中で、という場合が多いのではないかと思います。

普段の生活の中で、両親に「ありがとう」と言うことはあっても、「生んでくれてありがとう」とまでは、正直、あまりにも当たり前過ぎて、気に掛けることすらないのではないでしょうか。

「ありがとう」を、漢字で「有り難う」と書きます。

これは字のごとく、「有ることが難しい」という意味で、当たり前ではないということです。実はこれは、世の全てのことについて言えます。もちろん命についても同じで、私たちの存在も、両親あってこそ。
もし父が母と結ばれなかったとしたら、私はこの世界に誕生していないのです。

人とのつながりを、よく“縁”という言葉で表わしますが、この世の物事は、直接的な原因の“因”と、間接的な原因の“縁”によって結果が生じます。これは命についても同じことで、祖母や祖父がいなければ、父も母も存在していないわけで、考えれば考えるほど、命のつながりとは“縁”なのだと思います。

「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く」という言葉がありますが、そんな尊い“縁”をいただいて、私達は今、人間として生まれています。しかし、そうして生まれたこの世界は、楽しいことばかりではありません。むしろ数多くの苦しみに満ちています。

仏教の根本はその苦しみから離れることにありますが、この「難し」の言葉には、生命をいただいた「有り難さ」とともに、生の苦しみから逃れる方法である仏教を聞ける「有り難さ」が記されています。

人間の世界は、仏教を聞き、南無阿弥陀仏ととなえれば、苦しみのない阿弥陀さまの極楽浄土に往き生まれることのできる、お念仏の教えに出会う、有り難い“縁”を得られる場所なのです。

恥ずかしく、なかなか面と向かって言えないかもしれませんが、この世界に“縁”を結んでくれた両親に、「生んでくれて有り難う」と伝えたいと思います。

どちらが先に、お迎えが来るのか分かりませんが、その時が来るまでに…

合掌

過去の掲示伝道

 


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