明顕山 祐天寺

あかるく・ただしく・なかよく

法務部 黒澤 崇弘

 皆様は祐天寺で行われている「精進道場」という行事をご存じでしょうか?七月の終わりに祐天寺幼稚園の卒園生を中心に小学一年生から三年生の子どもたちを募り、子どもたちに泊りがけでお坊さんの生活を体験してもらうという行事です。精進道場では、子どもたちは花火やカレー作りなどの体験のほかにお勤めでお経をお唱えしたり、仏教の教えを学んだりと様々な体験をします。その中では祐天寺の僧侶が子どもたちと活動をしながら生活の指導にもあたります。子どもたちの指導にあたり、僧侶たちは次のような指導をいたします。「仏の子になるために明るく・正しく・仲良くを守りましょう」。僧侶たちは子供たちに対し「明るく・正しく・仲良く」をキーワードに子どもたちに指導を行うのです。
「明るく・正しく・仲良く」とは、椎尾弁匡(しいおべんきょう)上人という方が、仏・法・僧の三宝帰依の教えをわかりやすく表現した言葉です。※① 子どもたちが喧嘩をしていると「喧嘩をせず、明るく正しく仲良くを守って!」と注意を行います。このように「明るく・正しく・仲良く」の仏教精神に基づき僧侶たちは子どもたちと活動をしながら仏教教育を行うのです。
しかしながら、子どもたちとの生活や指導が万事上手くいくというわけではありません。積み重なる疲労から、子どもたちへの指導が必要以上に厳しくなってしまったり、子どもの悪戯に対してムッとしてしまうこともあります。大人気無くも語気が強くなり、笑顔で接することができないのです。子どもたちに対し、そのような行為をしてしまったとき「なんであんなことを言ってしまったんだろう」「もっとこういう言葉をかけてあげればよかった」恥ずかしながらも、後で思い返し後悔するのです。
そのように後悔をするなかで一つの疑問が生まれます。「自分は子供たちに「明るく・正しく・仲良く」するように言っているけど、偉そうに高説している自分は普段それを守れているだろうか?」。

浄土宗を開かれた法然上人は、末法の世を生きる人間の多くは戒律を守ることが難しいが、お念仏の一行で極楽往生をすることができるとお教えになりました。しかしながら、次のようにもおっしゃっています。

往生のためのお念仏は足りていると言って、悪いことを躊躇せず行い、行うべき善行を行わず、お念仏に励まないのは仏教の教えに反しています。阿弥陀仏は、善人でも悪人でも念仏をお称えする者は全員お救いしてくださるけれど、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しむのです。例えるなら、父母の慈悲の心は良い子も悪い子も平等に育むけれど、良い子に対しては喜び、悪い子に対しては嘆き悲しむようなものです。ですから、善人でありながら念仏をお称えする、これが本当に仏の教えに従う者というのです。※②

浄土宗の教えでは、極楽往生のためには戒律を守ったり善行を行ったりする必要はなく、お念仏の一行に励むことが大事であります。しかしだからと言って進んで戒律を破ったり悪行を行う姿を見たとき、阿弥陀様は「なんでそんなことをしてしまうのか…」と悲しむことでしょう。
私の日々の言動を振り返りますと、子供たちに対し「明るく・正しく・仲良くを守りましょう」と胸を張って言える立場ではないような気がいたします。そのような私を見て阿弥陀様は悲しんでいることでしょう。しかしいつの日か「よく頑張っているな!」と阿弥陀様に喜んでもらえるような仏教者になれるよう精進したいものです。

合掌

過去の掲示伝道

【脚注】
①「三宝」とは「仏・法・僧」の三つ、すなわち「仏さま・仏さまの教え・その教えを守る者たち」の三つを言います。仏教ではこの三つを大事にする(帰依する)ことが重要であるとされています。
椎尾上人は三宝帰依について「仏とは何処までも明るく導いてくださるお力で、この仏に帰依することは闇の中に提灯を求めることである。(中略)法を敬うとは正しうすることであります。明るいことの中にも色々な姿があります。暗がりの中に百鬼夜行するような、放埒我儘な姿も一度電灯に照らされますと、その誤れる姿なることを知り、正邪の道が明らかに示されて正しき道に進むことが出来ます。(中略)僧とは集まることでありますが、無智なる集まりは混雑であります。否、僧というその集まりは仏法による集まりであります。それは仲のよいこと、和合ということであります。」と述べています。(『椎尾弁匡選集』6・165頁「授戒講話」)

②法然上人は「念仏往生義」にて次のように述べています。「たゝし念仏して往生するに不足なしといひて、悪業をもはゝからす、行すへき慈悲をも行せす、念仏をもはけまささらん事は、仏教のおきてに相違するなり。たとへは父母の慈悲は、よき子をも、あしき子をもはくゝめとも、よき子をはよろこひ、あしき子をはなけくかことし。仏は一切衆生をあはれみて、よきをも、あしきをもわたし給へとも、善人を見てはよろこひ、悪人をみてはかなしみ給へる也。よき地によき種をまかんかことし、かまへて善人にしてしかも念仏をも修すべし、これを真実に仏教にしたかう物といふ也」(『昭和法然上人全集』691頁~692頁「念仏往生義」)

TOP