「年ごとに 咲くや吉野の山桜 木を割りて見よ 花のありかは」
法務部:脇川公暢
3月も中旬になり、やっと暖かな季節になりました。
境内の桜のつぼみも膨らみはじめ、花が咲くのも、もう間近であります。
日本には桜の名所と呼ばれるところは多くありますが、奈良県吉野山のシロヤマザクラを中心とした約
3万本とも呼ばれる桜が山全体で咲き乱れる姿を見た時は、心奪われる景色でありました。
しかし、吉野山の桜も冬に訪れたならば、葉も花もない桜の木が立ち並ぶだけで、花はどこかに無いか
と思い木を割ってみたとしても、花が出てくるわけではありません。
桜の木は春の暖かな陽気という「縁(えん)」をもとにして、一斉に花を咲かせるのです。
この「縁」という言葉は、仏教では「縁起(えんぎ)」という言葉に言い換えられます。
一般的に縁起という言葉は、縁起を担ぐ、縁起がいい・わるいなどという「きざし」「前兆」の意味として使われますが、仏教では「すべての事象は、他のものが縁となって生起する」という意味で使われます。
つまり、あらゆるものは、それ自体で生起、存在しているのではなく、他のものと関係することによって生起、存在しているのだという考え方です。
現代の世相は、自分さえよければいいという風潮があります。
しかし、縁起の法則から考えると、私たちの存在も自分だけで成立しているのでなく、周りの存在があってこその自分であるということに気づかなければなりません。
私たちは、「生かし、生かされあっている命」であることに気づき、お互い尊重する心を持つことが、必要ではないのでしょうか。
合掌