「種(しゅ)しあれば 心の水は 濁るとも 宝の池に はちす咲くなり」
子どもたちに導かれ、改めてお念仏の有り難さを受け止めさせていただいたそんな出来事。
「ねえお坊さん!ちょっと来て!」
寺務所から外へ出ると、境内で遊んでいた子どもの大きな声。まるで宝物でも発見したかのような表情を浮かべる子どもに手を引かれついて行くと、コンクリートの割れ目から綺麗な花が咲いていたのです。
まさかこんなところにと思う場所に咲いていたので驚いたが、日光や水や気温などの条件が整えばどこにでも花は咲くのだと関心したことだった。
この「条件が整えば」というところが重要です。どれだけ立派な種であっても、条件が整わなければ花が開くことはありません。言い方を変えるのならば、到底咲くとは思えないような種であっても、条件が整えば必ず花を開かせるのです。
実はお念仏の教えも同じです。阿弥陀様は極楽浄土に生まれたいと心から願いお念仏を称えたならば必ず救うとお約束をして下さいました。どれだけ立派な方であっても、お念仏をお称えしないのであれば、極楽浄土へお救いいただくことはできません。しかし、たとえどのような方であってもお念仏さえお称えしている方は、必ず極楽浄土へお救いいただけるのです。
「極楽浄土に生まれたいと心から願いお念仏を称える」
これが、極楽浄土へお救いいただくただ一つの条件です。
極楽浄土に生まれて往く私たちを種に例えるのならば、自らの煩悩によって苦しみ悩み迷うこの私は立派な種とはとても言えません。しかし、どれほど至らぬ私であってもお念仏を称えるのならば、必ず極楽浄土へお救いいただける、極楽浄土でその花を咲かせることができるのです。
放っておいて咲く種ではありません。どうかご一緒にお念仏を申す日暮らしを送って参りましょう。
合掌
法務部 名木橋大光