明顕山 祐天寺

「堪忍(かんにん)は無事(ぶじ)長久(ちょうきゅう)の基(もと)」

 

法務部 佐藤隆常

 

今年から始まりました大河ドラマは徳川家康について描かれていますが、この言葉は徳川家康の御遺訓の一部です。

以前「怒りは敵と思え」と書かせていただきましたが、この言葉はその前に付く言葉です。「忍耐は平穏無事が永く続く基礎である」という意味だそうです。

江戸幕府という、日本に約260年間も続く天下泰平の世を築かれた家康ですが、「忍耐の人である」といわれるように、幼少期から苦境を乗り越えて昇りつめた武将です。

そして、そんな家康の生まれた松平家の菩提寺は、三河にあります大樹寺という浄土宗のお寺です。家康は幼少期から母君と離れ、また人質としてたらい回しにあいました。桶狭間の戦いでは仕えていた今川家の敗北により自害しようとしますが、大樹寺(だいじゅじ)の当時の住職である登譽(とうよ)上人(しょうにん)の言葉により思いとどまりました。

 

先鋒としての任務を成功させた矢先に大将の今川義元が討たれ、自分にも敵兵が迫ってきます。家康は大樹寺まで逃げ帰りますが敵兵に追われ、「もはやこれまで」と先祖の墓前で自害しようとする中、登譽上人にとどめられ、「厭離(えんり)穢土(えど)・欣求(ごんぐ)浄土(じょうど)」の教えを聞き、浄土念仏の教えの尊さを知りました。「厭離穢土・欣求浄土」とは、「現実の世の中は、穢(けが)れた世界であるからこの世界を厭(いと)い離れ、次生においては清浄な仏の国土に生まれることを願い求める」という意味です。武人である以上、天下を取って自分の名前を残すことを目標としていた家康ですが、以後、戦国の世を穢土とし、平和な世を浄土としてとらえ、「人々の平和のために」と座右の銘として、旗印へ定めるのです。さらにこの大樹寺まで追っていた敵兵を僧侶が追い返し、家康は2度命を救われることになりました。それ以来、家康は日課6万遍のお念仏をお称えすることを誓い、熱心な念仏者となられました。そして、自分の守り本尊にしたいと、大樹寺にあった阿弥陀(あみだ)如来像(にょらいぞう)(白本尊)を譲り受けました。

 

また三河統一目前で勃発した一向一揆の際には、三河領内の明源寺(みょうげんじ)というお寺で、争いが治まるよう祈願を一中夜行ったと言われています。その明源寺の本尊である阿弥陀如来像(黒本尊)がその願いを聞き入れて一揆を鎮圧したかは別として、一揆が平定したことを喜び、この本尊を譲ってもらうよう頼み込みました。

また家康は生涯に2度、五重(ごじゅう)相伝(そうでん)(法然上人のみ教えを五つに重ね合わせて、念仏信仰の実践を身に付ける作法)を受けられ、念仏信仰を深められました。

このようにして家康は2体の阿弥陀如来像を身辺に安置し、戦の際には黒本尊を必ず携帯して本陣に安置して、片時も念仏を忘れなかったといわれています。

 

そして天下分け目の戦い、関ケ原の戦いで勝利を治めた家康は江戸幕府を開き、戦のない人々の平和のための世を築くのでした。

なお、黒本尊は、家康を数多くの戦から守り、勝ち続けてきたことから「勝ち運の仏様」とされ、現在は浄土宗大本山芝増上寺(ぞうじょうじ)の安国殿に安置されています。

また晩年の家康が「南無阿弥陀仏」と記した自筆の御名号が全国に数点見つかっており、残されております。

 

永く耐え忍びながら、この世では戦のない世を求め、そして次世では清浄な仏の国土を求め、そして実現された家康です。

「堪忍は無事長久の基」。そんな家康の言葉ですから説得力がありますね。私たちの現代の生活の中でも活きてきそうです。そして何より、家康も称え続けたお念仏を私たちも称えて、平穏無事な生活を送り続けたいものです。

合掌

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