明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート2

祐天寺の開創(二)

経蔵と夜余りの弥陀

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

宝暦8年(1758)4月朔日、2間半四方に奥行4尺と横7尺の向拝付き経蔵が造営されました。 この経蔵は、祐天寺起立祐海の弟子信哲が、傘寿を迎えたこの年に施主となり建てたもので、本堂の東側
すなわち今の大絵馬と五社稲荷の間にありました。経典およそ9百30冊を、20箇の大箱に入れて収めるこの経蔵は、入念な塗り壁のみごとな土蔵造りで、祐海77歳が5世として再住していた頃の造立です。

同8年2月13日、祐天寺より寺社奉行御月番阿部伊豫守へ、経蔵の朱絵図とともに造立の願い書を差し出すと、ただちにその許可がおりました。

経蔵の建造には、祐海の弟子祐全が役僧となり、納所(経理)は智眼、世話人は念栖81歳、大工は時の名棟梁である藤原房繁信安兵衛がそれぞれ任に当たり、天井に祐海直筆の棟札を納めました。この棟札は、祐全が6世となった宝暦10年(1760)の翌年7月に、経蔵を修復した折、箱に入れて保存し、再び天井に戻されました。

寛保2年(1742)2月朔日、三縁山増上寺の学寮主を退いて、山内の塔頭真乗院に隠居中の億道和尚か遷化し、翌2日に大崎の増上寺下屋敷で茶毘に付されたとき、祐海が参列してその遺物の釈迦三尊を描く軸物1幅、そして明本の黄檗版大蔵経が祐天寺に寄進され、これが経蔵に収められておりました。

億道和尚は、開山祐天上人の旧来の随従者であったことから、おそらくは、上人が眠る祐天寺に贈るよう遺言したものでありましょう。この大蔵経は、現在、祐天寺に大切に収蔵されています。

経蔵には、大蔵経を守護するため、阿弥陀如来坐像が奉安されました木製金躰に黒衣をまとう2尺3寸のこの弥陀像は、又の名を「夜余りの弥陀」と称し、当時の仏工安阿弥陀仏すなわち安阿弥が、7日の間に彫り上げようと誓い、その早暁に仕上げの左脚を刻んでいたが、ついに夜明けの鶏の声を聞き、荒彫りのまま道具をその腹内に蔵め、未完の弥陀像としたことからこの名が起こったと言われます。

この弥陀像は初め、ある寺の秘仏となり、長くその寺の厨子に納められていましたが、江戸の豪商松村半兵衛という有徳の者が、夢にその弥陀像が蔦葛の蔽う貧寺にあることを告げられ、半兵衛はその寺を訪ね、万金を布施して弥陀像を家敷に移し、荘厳して長男宗欽の妻むらに花ほか仏飯そして水などを供えさせました。

この半兵衛は、かつて祐天上人が牛島(墨田区)に隠棲のとき、いつも上人に信施を供養していたので、上人も時折、半兵衛宅に寄り、その弥陀像を拝しておられたのでした。

しかし、ほどなくして半兵衛が落命すると、宗欽は弥陀像を土蔵の2階に上げてしまい、一向に信仰する素振りさえ見せませんでした。

ところが、2階のほうから、夜な夜な読経の声が聞こえ、むらは、「きっとあの阿弥陀さまに違いない」
とその弥陀像を2階からおろし、新たに土蔵を建てて弥陀像を祠り、灯明を絶やすことはありませんでした。

こうしたある日のこと、宗欽は50歳になって、病の床に伏すと、妻むらを枕辺に呼び、今まで仏さまをおろそかにしたことを悔い、むらの教
えのままに、南無阿弥陀仏と口に称えると、宗欽は心静かに往生しました。むらは、義父半兵衛と夫宗欽の菩提を弔うべく、日々怠ることなく、一心に弥陀像に香をたむけました。 やがて、むらは妙舩と名を改め、この弥陀像にますます帰依していましたが、「わたし一人が拝するのは、阿弥陀さまの説く遍照光明の教えにそぐわない。父のご縁ある祐天さまのお寺に・・・・・・」

こう決心し、妙舩は弥陀像を真綿にくるんで胸に抱き、祐天寺の門をぐぐり、住持祐海の手にその弥陀像を委ねました。

半兵衛が、霊夢によって感得したこの「夜余りの弥陀」は、こうして祐天寺に安置されることとなり、経蔵の本尊として大蔵経を守ったと言われます。

10世祐麟の言によれば、むらの実父法眼不角は、この「夜余りの弥陀」縁起を、延享5年(1748)4月8日、88歳で記録したものであると語っています。

経蔵はすでに失われましたが、しかし、往時を偲ぶ遺構らしきその場所には、壮年に達した3本の桜樹が立ち、わたくしたちに、何かを語り掛けているように思われます。

祐天ファミリー6号(H8-4-15)掲載

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