明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート3

祐天寺の開創(三)

祐天寺末大森薬師堂

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保16年(1731)3月、祐天寺の起立祐海が第2世住職であった頃、祐天寺から香残と祐益、増上寺北谷泰淳寮から証人として泰禅が、西大森村(現、大田区大森東4-1-1)の薬師堂に向かいました。

当時、薬師堂には増上寺三島谷覚瑩寮の、欽応が住していましたが、香残、祐益、泰禅の3人は、欽応と対談して、この薬師堂を円満に祐天寺末として譲り受け、同年、香残がここに入住して、第5代の堂主となりました。

この薬師堂の本尊薬師如来は、徳川5代将軍綱吉の養女竹姫が篤く崇信し、金襴のとばりを寄進したことから、以来、多くの参詣者が訪れました。

竹姫はそれまで、2度の縁組が整いながらも、そのいずれもが夫君となるべき肥後守嫡子松平久千代の早逝と、有栖川宮正仁親王の薨去という悲しみに遭い、薬師如来を念ずれば、無病長寿と西方極楽世界への往生をかなえるという、『薬師如来本願経』が説く、その言葉に思願を込めて、若くして他界した2人の菩提を弔っていたのでした。

竹姫はまた、祐天上人から浄土の教えを聴聞し、十念を受けていましたから、上人が入寂されたときは、上人の遺弟祐海に申し出て、祐天寺開創の一助として、上人の御影ばかりでなく、阿弥陀堂、仁王門までも、寄進建立しています。

こうした、上人と竹姫の量り知れない因縁から、この薬師堂が、祐天寺末となったのです。

薬師堂は、もともと本芝(現、港区芝)法音寺の支配でしたが、祐天寺から香残が入住したことで、以前にも増して大いに繁栄し、毎年4月8日の釈尊降誕会(お花祭り)には、近郷近在の善男善女が参詣し、鐃 と法鼓の奏する、ジャンボンという楽音に合わせた読経を聞きながら、人々は薬師如来に香を手向け、念いおもいの祈りを込めて合掌し、終日、賑わいを見せたと言われ、大森東3、4丁目の老人たちは、往時の薬師堂を今でも、「ジャンボン」と呼び慣わしています。

同区、平林家文書「薬師堂回向記」によれば、薬師堂の歴代堂主の名は、「初代は単(丹)西、2代は単心、3代は円該、4代は円智、5代が香残」と書きとどめています。しかし、6代以降は審かでなく、ただ、願求や西誓ほか6僧の名を連ねているだけです。

昭和17年(1942)3月27日、この薬師堂は大森薬師教会と改称され、祐天寺18世の俊興が、その主管者を任めています。

香残は、祐天寺の日記『明顕山寺録』を書き遺した人でもあり、その名は祐天寺墓地内の「歴代法類上人の墓」に見えています。

薬師堂の大きさは、同じく平林家文書「薬師堂明細書上」に詳記されていますが、それを要約しますと、「本堂薬師堂は4間四方で、祭壇の上には本尊薬師如来、十二支天、釈迦誕生仏、大日如来、地蔵菩薩がそれぞれ1躯ずつ安置され、この建物と棟続きにさらに、8尺四方の地蔵堂と、間口2間に奥行き5間の庫裡が付き、このほかに薬師堂には、半鐘、木魚、伏鉦、経机などがあり、向拝の前には、安政4年(1857)冬10月、大森薬師堂厨子若者中が寄進した賽銭箱、境内には5尺から1丈ほどの立木2本があった」と述べております。
この薬師堂は、「昭和20年4月15日の戦災で焼け残り、のち、取り壊された」という人もいます。

現在、大森東3丁目の厳正寺には、薬師堂と地蔵堂に各1躯ずつあった地蔵菩薩石像が2躯、境内一隅の小祠に左右に並べて祀られております。右1躯は、像高約43㎝と台石約18㎝で、左1躯は、像高約13㎝と台石約43㎝のものです。どちらが薬師堂のもので、どちらが地蔵堂のものかわかりません。

また、この小祠の後ろには、文化元年(1804)9月14日に没した、称蓮社名誉隨専和尚の法号を持つ卵塔1基が建ち、あたかも、2躯の地蔵菩薩を見守っているかのようです。

地蔵菩薩石像2躯と卵塔1基が、この厳正寺に移されたのは、戦災後まもない頃で、小祠に祀られ、赤い前垂れをしたこの2躯の地蔵菩薩には、いつも香が焚かれています。

かつて、薬師堂のあったところは、今は大森東中学校となり、そこに、薬師堂が存在したことを示す史碑はありません。しかし、その遺趾をしのばせる細い「薬師路」が1本、大森第1小学校横の太い道から岐かれて、昔日の薬師堂へ続いています。

祐天ファミリー8号(H8-9-1)掲載

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