明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート4

祐天寺の開創(四)

祐天上人隠棲地「牛島」

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

上人50歳が、牛島(墨田区)に隠棲したのは、増上寺を退いた貞享3年(1686)3月下旬から、2か月ほど経った5月19日頃のことでした。

牛島の地名は、この土地を遠方から眺めると、あたかも牛が伏せているようなので、この名が起こったと言われています。

当時、牛島と言えば、小梅、中之郷、請地、須崎、寺島、隅田、押上などの諸村を含む総称でしたが、上人がおられたその場所は、特に本所牛島という地区でした。ここには、寺院が浄土宗のほか、天台宗、真言宗、曹洞宗、日蓮宗など、十数か寺が建ち並んでいました。

本所牛島は、単に本所あるいは牛島とも略称し、元禄年間(1688~1703)頃に、本所、南本所、北本所の3つに区分けされました。牛島の呼び名は、現在でも本所や東駒形の人々が、時折用いています。

貞享3年3月下旬、上人は、浅茅原の浄土宗蓮華院に、1、2か月ほどおられました。

浅茅原は、だいたい今の台東区橋場1丁目17~20、26~33番地に当たり、東に隅田川を望み、知恩院末蓮華院は、この橋場1丁目西隣り、清川1丁目13番地1~4と15、16号、そして同14番の区立石浜小学校内南側あたりまでの区域に、戦災前まで門を構えていました。また、隅田川堤に出れば、その北寄りには、牛島の寺島村(現、堤通1、2丁目)へ行く「橋場の渡」(現、白鬚橋)が設けてありました。

さて、上人が庵室を置いた、牛島の現在地について、これまで一歩を進めた説はありませんでした。しかし、次の数点の史料から、その場所が、大まかながら、手掛かりがつきそうです。

まず、文政11年(1828)の『感応寺書上』に、「慶安四年(1651)、開山清薫……本所牛島に庵室を建て候」、また、同年の『町方書上』に、「元禄年中……祐天僧正、未得をかくして牛島に幽棲しおるなれは」のようにあり、次に、同『感応寺書上』の境内図ならびに文久元年(1861)3月、幕府が作成した『御府内場末往還其外沿革図書』十五下「土井能登守抱屋敷其外妙源寺并感応寺境内辺之部」の、「元禄十二卯年 同十六未年之形」から、感応寺は、本所牛島すなわち南本所荒井町(現、東駒形2丁目9~10番地あたり)に建立されたことが知られます。

さらに、この『感応寺書上』に収める「清薫一代記」に、「清薫かね   の志は、たとへは祐天大僧正いまた庵室にませし時、感応寺と軒近ふして、たかひに称名の声不断やまさるを」と記していることから、上人の庵室は、感応寺と近接していたと見られ、次の仮説が成り立つのではないでしょうか。

それは、前出の「元禄十二卯年 同十六未年之形」に、感応寺の両隣に「百姓町屋」が記録されているからです。百姓とは、当時の商人や職人を指し、この人々が住む家を町屋と言いました。

上人は、確かに武家やその夫人たちにも崇敬されましたが、どちらかと言えば、むしろ商人や職人などの庶民に広く信仰されたようです。それゆえ、このことから察しますに、まだ確証を得ていませんが、上人は、ややもすれば、この町屋のどこか1軒を、庵室にされていたのかもしれません。

上人の庵室が、もしもこの町屋のどこかにあったのであれば、「感応寺と軒近ふして」の記述も、合点がいくような気がします。上人が、増上寺を出て一介の念仏行者となった理由の1つには、念仏を民衆に弘めることにあったのでしょう。そうだとすれば、やはり町屋に住むことが、どれほどか好都合であったか、言わずもがなです。

本所牛島の庵室を閉じてから、上人は、次に本所石原に庵室を移したと言われます。しかしながら、牛島と石原での事歴のいくつかを伝える『祐天大僧正利益記』上巻と中巻を見る限りでは、この説は、必ずしも首肯しがたいものがあります。以下に、その年時につき2、3を掲げましょう。
元禄元年 牛島 利益記上
同  年 石原 利益記上
元禄6年 牛島 利益記中
同  年 石原 利益記中
つまり、上人は、桂昌院の帰依とその子5代綱吉の台命を受けて、関東18檀林の1つ、下総(千葉県)生実の大巖寺住職となる元禄12年(1699)2月までは、蓮入大徳を随従として、おそらく牛島と石原の両庵室に交互におられ、約13年間、この地に隠棲されたものと思われます。

祐天ファミリー10号(H9-2-15)掲載

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