明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート6

祐天寺精史(一)

善久院へ祐天上人入院

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

『明顕山寺録撮要』に次のように記されています。
享保4年(1419)2月17日、およそ1、100人の行列が、龍土町(港区)の禅室から善久院(祐天寺の前身)へ、祐天上人生き写しの御影、舎利、舌根を先頭に、祐海がその後ろにつき従い到着しました。同3年7月15日、禅室で西化した上人の百か日を経た約4か月後のこの日、当院の開山を上人、2世を祐海が務めるため、入院したのです。

行列の中心となった人々の名前と配置が記されています。(行列の図、参照)
このうち、僧70余人、侍と足軽そのほか伴のものが30余人で、あとの1、000人は上人を信仰し敬慕する一般の民衆で、龍土町から善久院まで、上人を送ってきたのでした。

朝五時(午前8時)、行列は龍土町を出発、御薬園橋から白金台町そして行人坂へ出て、目黒の紅葉茶屋から大島明神の前を通り、そこから下村の正覚寺前にかかり、善久院に至ったのです。

上人の行列をひと目見ようと、道筋には人波が続き、御影に合掌して念仏を称える多くの人々が、目をうるませていました。途中の警固には、高松中将殿の家臣小笠原喜之丞の足軽20数人が供奉したのです。

芝の西応寺と増上寺の塔頭(小院・小坊)、月界院の住持、さらに上人が牛島(墨田区)に隠棲した当時からの信奉者で、のちに、大奥と祐天寺の連絡係となる姥おかねが、先に善久院で行列を待ち受けていました。

昼九時、行列は善久院に到着し、御影、舎利、舌根が仮仏殿へ安置されました。そののち、入院の儀式が執行され、まず各寺院の僧が2列に並び、洒水をして仮仏殿へ進み入り、仏の四智を讃歎する四智讃を誦えて、鐃、鈑を打ち鳴らし、次に諸仏菩薩をこの法会の場に仰える四奉請の偈、さらに4種の誓願を説く四誓偈、続いて『阿弥陀経』を誦えて念仏回向がなされ、三方に十念が捧げられる頃は、境内は上人を信仰する善男善女の人々であふれました。

同17日、吹上御殿の月光院さまから、行器(食事を持ち運ぶ際の容器)ひと揃い、添重ひと組をくださるという手紙が着き、また、松姫さまからも行器ひと揃いが、代参のおきち、お海津、お局により届けられました。

増上寺の38世演誉大僧正から、金500匹(1匹は25文)、昆布1折が、帳場(経理)の義潭を使僧として届けられ、また、増上寺の塔頭30坊の僧と、学寮の月番の僧らが1列に並んで善久院に入来、その総代が金500匹を上人の御影前に供え、さらに500匹は祐海へ入院の祝儀に贈られたのです。

善久院の近くの農家から、17人が来て祐海にあいさつし、祝いの音物(進物)が手渡されました。

入院の儀式に集まった人々への饗応は1、130人にものぼり、それぞれ赤飯と煮染、吹物、酒が出され、行列の供廻り900人には1汁5菜が出されたのです。

同18日、増上寺の学頭利天和尚、役者頓秀和尚、真察和尚、順教和尚、檀察和尚、円説和尚、了槃和尚、和春和尚、廓俊和尚、卓玄和尚などが来院し、各自が扇子3本入りの品を祐海に贈り、入院の祝賀を述べました。

同20日、祐海は入院御礼を言上のため、御老中御用番井上河内守さまと寺社奉行土井伊豫守殿へ参上、また増上寺に向かい、演誉大僧正に銀1枚、金100匹ずつを役者4人へ、銀3匁をそれぞれ帳場の4人と役者2人へ、金100匹を取次の月界院住持へ、入院の御礼として進上しました。

祐海が当院の2世住職となることについては、前年10月28日に、寺社奉行土井伊豫守殿の屋敷において、塔頭安養院も同席して、祐海がじきじきに伊豫守殿から仰せ渡されたものです。

その当日、祐海は住職拝命の御礼を、御老中御用番井上河内守さまはじめ各御老中とほかの寺社奉行方、夜六半時(午後7時)頃には、増上寺の演誉大僧正に会い、さらに安養院と増上寺役者円龍和尚へ立ち寄り申し上げ、帰院したのです。 (つづく)

祐天ファミリー14号(H9-12-1)掲載

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