明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート7

祐天寺精史(二)

祐天上人の遺跡起立願い――

 祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

祐天上人の御影と舎利と舌根および祐海が、善久院に入院したことを祝う人々の列は、享保4年(1719)7月11日まで続きました。

すなわち、同2月21日には、文昭院さま(6代将軍家宣公)の正室一位天英院さまから、行器ひと組と6代将軍が生前に召した、内側に紫の羽二重付き金襴の装束ひと揃いを、上人の仏前荘厳のためにと、金3両を添えて贈る旨の手紙が寄せられ、後日この装束は、上人をまつる本堂中央の内陣を飾る天蓋として用いられました。

翌23日には、法心院さま(家宣公の侍女)と蓮浄院さま(同寵女)から、それぞれ行器ひと組が届き、また小石川伝通院の月行事惣代天霊和尚が、金300疋を持参されました。これは、上人が伝通院に在住の折、同院に祠堂金として寄付していたものでした。

この23日にはまた、常憲院さま(5代将軍綱吉公)の息女松姫さまから、金500疋と昆布1箱、さらに蒸籠5組をくださるという手紙が、三之丸さま(瑞春院鶴姫)から、紗綾2巻が祝儀として贈られてきました。

同6月28日には、本丸の御老女三室さま、外山さま、田沢さまが、善久院に参詣され、それぞれ銀3枚ずつをくださいました。

そして同7月11日には、再び蓮浄院さまが、白銀3枚をくださいました。

善久院に、祐海が2世として入院したわけは、上人の廟所を建てて遺跡とし、上人が入寂に臨んで開白(口称)した念仏を、絶やすことなく称えるに必要な、常念仏道場を設けることにあったのです。善久院をその場所に選ぶにあたり、次のような長い経緯がありました。

享保3年(1718)の春、麻布竜土町の隠室に、病を得ながらなお日々念仏行に勤める上人の側近くに、随従者祐海は膝を進め、師の没後はその遺跡を築きたいことを、この日も申し上げたのでした。

すると上人は、
「ともかくも、その方の考えしだい。何事もその方に任す」
と仰せられたので、祐海はこの言葉を受けて、同年7月初旬、三縁山増上寺の役者円龍和尚と塔頭安養院へ、二本榎(港区)の永心(信)寺の寺号をいただき、目黒辺りの払い屋敷を譲り受け、そこに永心寺を引き移し、まず、上人の廟所を築き、遺跡とする旨を相談しました。

塔頭安養院は、このことをただちに寺社奉行土井伊豫守殿の役人矢野五郎右衛門に問い合わせたところ、「目黒辺りは御鷹場ゆえ、たとえ上人を敬慕される一位天英院さま、月光院さまのお口添えがありましょうとも、おそらくはかなわぬことながら、上人の高弟祐海の願いならば、伊豫守に申聞し、追ってあいさつする」
とのことでした。

しかし、その後の五郎右衛門からの返答は、
「とかく、かないがたし」
というものでした。

祐海は、これでは埒が明かぬと悟り、同7月15日、大奥の御老女さま方へ直々、願いの趣きを認め、16日早朝、かねを使者にその書き付けを持たせ、御本丸へ遣わしました。
その内容は、次のようでした。
「顕誉大僧正は、ひと頃より食も進まず、日増しにご衰老の色濃く、回復も望めなくなりました。それゆえ、命終ののちは、ぜひとも目黒辺りに払い屋敷を求め、そこに二本榎の永心寺を引き移し、廟所と常念仏道場を建てたく存じます。
どうかなにとぞ、恐れながら、将軍吉宗公に御上聞くださいますよう、切にお願い申し上げます。

当年4月晦日、有章院さま(7代将軍家継公)の3回忌万部法会の折、吉宗公より特に隠居祐天上人を増上寺に迎えられ、法話の機会を与えてくださったことに、師祐天は『老後の大慶』と申され、深謝いたしておりました。
かような恩恵もございますれば、なにぶんにも、上人の廟所と常念仏道場を目黒辺りの払い屋敷に建てることを、ご許可くださいますよう、重ねてお願い申し上げます。

7月15日
常盤井様
三 室 様
高 瀬 様      祐かい
外 山 様
田 沢 様         」

上人は、この願い書きの結果を聞かぬまま、15日戌の上刻(午後8時過ぎ)、麻布竜土町の隠室で遷化されました。  (つづく)

祐天ファミリー15号(H10-2-15)掲載

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