明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート8

祐天寺精史(三)

祐天上人の宿願、常念仏道場の建立

 祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保三年(1718)七月十七日、祐海は増上寺に行き、顕誉祐天大僧正の中陰の期間中に、麻布龍土町の隠室において、その追善供養の法会を執行したく、その許可を寺社奉行所へ願い出くださるよう役者円龍和尚に申し上げました。

これを受けて翌十八日、円龍和尚は寺社奉行伊豫守殿の内寄合席に相い越し、増上寺三十六世顕誉祐天大僧正の遷化の訃音と、右中陰追善供養について願い出ました。
即刻、伊豫守殿は円龍和尚に会い、
「この儀、もっともである」
と許可を出し、円龍和尚と顕誉大僧正の弟子ならびに類縁の者へ、お悔みの言葉を述べ、殊に祐海には、
「さぞ、力落としのことであろう」
と挨拶があり、円龍和尚は顕誉大僧正の追善供養の許可と、その挨拶を書信にて祐海に伝えました。

十九日早朝、本丸の御老女がたから祐海へ、十六日の手紙の返書が届きました。
「かねがたずさえしお文を、いくどもお読みしました。顕誉さまは、ひところより食も進まず、だんだん病も重くなり、悲しくもご遷化なされたよし、胸のつまる思いでございます。病のことは少しも存じあげなかったわたくしたち老女は、とても驚き泪にくれるばかりでございます。

さてさて、おしき祐天さまとお噂申しあげております。そなたのお文の口上をかねにもうかがいましたけれども、内容があまり詳しくないので、知り合いの奥右筆にかねから聴いたそなたの言葉もさらに詳しく書き加え、公方さまへ内々にお渡ししておきましょう。そなたからもあらためて、月番の寺社奉行衆へよくよくお頼みすべく、早々に願い書きを差し出してください。委細はかねに話しておきます。

どうぞお聴きくださいますよう。
かしく。
とき王井
三 む 路
祐かい様     多 可 勢
御返事     外 屋 ま
田 さ 王」

祐海はこの返書を受け取り、かねから御老女がたの言葉を聴いて、
「いよいよ今日、拙僧、寺社御月番へ願い書きをお持ちいたします」
と手紙で御老女がたに知らせると、
「今日中に差し出すように」
との返信が寄せられ、祐海はただちに次のように願い書きを認めました。
「顕誉祐天大僧正の命終について、中陰の追善供養を勤めたく、某祐海を初めとする弟子どもが、円龍和尚を通じて願い出ましたこの件に対して、ご許可いただき、まことにありがとうございました。これに連関しまして、顕誉大僧正の廟所の建立と、さらに顕誉大僧正が生前、常念仏道場を目黒の地に設け、不断の念仏を修する存念にございましたが、ついにその宿願も果たせぬまま、七月十五日に遷化されました。

この道場は、顕誉大僧正の年来の宿望でもあり、自ら資金を準備しておられたのですが、叶えられずにまことに残念と仰せられ、わたくし祐海に、わが命終ののち、ぜひとも寺社奉行所へ常念仏道場建立願いを申し出て、それを実現せよ、と遺言されたのです。

幸い、二本榎(港区)に無住の永心寺と、目黒辺りに払い屋敷もございますので、右の寺をここに引き移し、顕誉大僧正の廟所と常念仏道場を建て、不断の念仏を行じたき所存にございます。なにとぞ、お免しくださいますこと、一重にお願い申しあげます。已上。
顕誉大僧正弟子
七月十九日       祐海」

同日九時、祐海はこの願い書きを増上寺へ持参し、本日、寺社奉行所へ差し出す旨、役者衆へ告げました。
円龍和尚はこの件につき、
「惣じて願いの儀は、方丈演誉大僧正の添簡がなくては、寺社奉行衆は一切お取り上げにならないのでは」
と祐海にただすと、
「たしかに、そうすることが順序ではございますが、この願いの儀は、顕誉大僧正の遺言ゆえ、将軍吉宗公の御英断を仰ぐべく、すでに十六日に大奥の御老女がたに、それを内々にお取りなしくださいますよう、お頼み申し上げております。

せんだって、塔頭安養院から寺社司土井伊豫守殿へ、この願いの筋を問い合わせたときには、『とかく、叶いがたし』という、取り次ぎ役人矢野五郎右衛門からのご返答でした。したがいまして、ここで方丈演誉大僧正の添簡をいただきましょうとも、おそらく、この願いの儀は、落着しがたく思われます」

この祐海の答えに、円龍和尚はほかの役者衆と祐海を伴い、演誉大僧正のもとに赴き、この願いの一件に、演誉大僧正が一筆を添えるべきかどうかを諮ったのです。 (つづく)

祐天ファミリー16号(H10-4-15)掲載

TOP