明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート9

祐天寺精史(四)

祐天上人の初七日追善供養

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保3年(1718)7月17日九時(正午)、祐海は増上寺演誉大僧正から、「添簡を附けずともよい」との言葉をいただき、同日八時(午後2時)、常念仏道場建立の願い書きを持って、寺社奉行土井伊豫守殿の屋敷に赴き、役人矢野五郎右衛門にそれを差し出しました。

すると、矢野五郎右衛門は、
「この願いの筋、最前、塔頭安養院から内々の意向にて尋ねられたが、なかなか相い済みがたき儀。惣じて増上寺演誉大僧正の添簡なくては、奉行へこの願い書きを取り次ぎがたい。とりわけ、祐天大僧正の御中陰と百か日の追善供養の許可願いは、昨日、首尾よく奉行の認容が得られたが、この認容からいまだ七日も経たぬうちに、かような願い書きを持参されるとは、いかにも浅慮と存じられる」
と叱責しました。

その応対に祐海は即座に、
「今日、持参したは、訳あってのこと。わが師祐天大僧正の遷化にあたっては、大奥の御老女方から、某へ願いごとあらば申せとのお尋ねがありましたゆえ、『祐天大僧正の龍土町(港区)居住のことは、祐天大僧正が一代限りにございます。いずれ寺社御奉行の差し図が下され次第、その住居は取り払います。それまでは、どうかお待ち下さいませ』と申し上げましたところ、重ねて、ほかに望みあらば申せとのことでございましたので、常念仏道場建立の願いを言上いたしますと、願い書きを、早々に寺社御月番へ持参せよとのご指示にございました。

かような訳にて、本日こうして参った次第。しかるに、ただいまの貴殿のご挨拶。じつにもってのほか。この願い書き持参が『浅慮』とは、祐天大僧正のみならず、増上寺演誉大僧正そして役者円龍和尚を初めとする他の役者衆に対してまでも、はなはだ心いたむ過言」
と詰め寄りました。

矢野五郎右衛門は、祐海のこの諫めにも似た言葉に色を変え、
「至極、ごもっともである」
と失辞を詫び、
「いずれにしても、この願い書きは預かるが、しかし、この願い書きのみで、はたして奉行がお取り上げになるかならぬか。また、演誉大僧正の添簡が必要かどうかは、まずは奉行に伺う」
と矢野五郎右衛門は願い書きを預かったので、祐海はそのまま龍土町の祐天大僧正の隠室に帰りました。

7月21日、龍土町の隠室で、祐天大僧正の初七日の追善供養が執り行われました。遺弟祐海ならびに法縁好身の衆中が、この供養を奉修するにあたって、この日の四時(午前10時)、増上寺演誉大僧正のもとに参上し、演誉大僧正の尽力によって、寺社奉行土井伊豫守殿から、祐天大僧正の初七日と百か日の追善供養奉修のお免しが得られた旨の報告と御礼を申し上げ、演誉大僧正へ金襴の七条袈裟1肩、黄金1枚、お斎料白銀10枚を上りました。また、円龍和尚を含む役人4人へは、表具箱入遺物として祐天大僧正ご染筆の六字名号1幅ずつと、白銀2枚ずつを差し上げました。

このほか、祐天大僧正が遷化の節、弔問の檀林の方々、御別当方、所化衆、月行事衆、寺家衆への返礼はありませんでした。

本日の初七日では、祐天大僧正へ、鴻の巣勝願寺の祐頓、館林善導寺の鑑歴、芝西応寺の寂天、増上寺徳川霊廟別当八か院の1つ宝松院の雲洞、塔頭真乗院の億道、それに某祐海が、それぞれ白銀1枚ずつを香奠としてその宝前に供え、祐天大僧正のその他の弟子、 的、宗順、祐円、祐的、祐林、光堪、鳳巌が金100疋ずつを包み、勢州(三重県)清雲院の祐意、浅草新光明寺の隆円、三田大信寺の通外、白金正源寺の林外、上大崎下屋敷本願寺の円外、在俗の信者森田次郎兵衛、翁屋七兵衛、加藤善次郎が、おのおの金100疋ずつを祐天大僧正の佛前に供えました。

また、川崎矢向良忠寺の隠居順阿、埼玉越谷の天岳寺の桜室、鵜の木光明寺の利億、駒込正行寺の学冏、上大崎下屋敷清岸寺の柳泉、浅草正覚寺の念哲、川崎矢向良忠寺の南随、三田春林寺、芝法音寺の岳潭、小石川法蔵院の運貞などが、香料金100疋ずつを供えました。

なお本日、祐海が増上寺演誉大僧正のもとに赴いた折、帳場の善達が祐海に会い、円龍和尚からの書状を手渡しました。

それによれば、
「昨日、若年寄石川近江守殿より、役者円龍和尚もしくは学頭利天和尚のいずれか、役宅にくるようにとの呼び状に、利天和尚が参上したところ、石川近江守殿は、
『十八檀林、いま一か寺増やしてもかまわぬか』
と尋ねられたので、
『それは、とても成りがたき儀』
と利天和尚はお答えし、増上寺に帰ってのち円龍和尚にその一件を告げると、円龍和尚は、
『これは、いずれにしても、祐天大僧正の生き写しの御影を安置たてまつる寺を建て、その寺を檀林とするご意志であられることは、まことに吉事である』」
との、祐海への伝言内容でした。 (つづく)

祐天ファミリー17号(H10-6-20)掲載

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