明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート11

祐天寺精史(六)

祐天上人廟所建立の内許

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保3年(1718)10月16日、同6日より増上寺で厳修された、文昭院殿(家宣)の七回忌萬部経会が滞りなく済み、江戸城における猿楽陪観のため、増上寺三十八世法主演誉白随大僧正が、役者円龍和尚を侍者として登城しました。

その折、寺社司御月番土井伊豫守殿が円龍和尚を呼び出し、柳の間で対談しました。
「ただ今、御老中井上河内守さまご列座にて、『これまでの善久院住持覚(岳)随が隠居するにあたり、紛糾なきや』と仰せられたが」
「紛糾はございません」
「最早、隠居いたしたのか」
「善久院に、祐天大僧正の廟所建立の御認許が相いかない次第、現住覚随和尚に隠居を申し付くる所存にございます」
「その言辞、祐天大僧正の願望成就のため、お上の権威をもって、隠居申し付くるように聞こえるが、覚随と祐海の間に、軋轢なきや」
「そのご懸念お言葉のごとくにございますが、此度の廟所建立につきましては、覚随和尚も重々に承知いたしております。いささかの支障もございません」
「しかれば、善久院に寺号ありや」
「ごく小寺なれば、寺号と申すもの、これまでございません」
「なるほど、祐海が引き寺として善久院を願い出たわけ確かに相いわかった。以上のこと、相違なければ早々に、書付を当寺社奉行まで出されたし。願いの儀につき、追ってご沙汰があろう」

同月28日、土井伊豫守殿から、「申し渡しの儀あり。急ぎ役宅まで来られたし」との文面で、龍土町の祐天大僧正の隠室にいる祐海あてに、呼び状が届きました。

即刻、祐海が参上すると、土井伊豫守殿は直々、
「引き寺の儀、相いかないがたし。御老中井上河内守さまより、このとおりの書付をもって仰せ渡さる」
と、祐海にその書付を手渡しました。

書付の仔細はこうでした。
「顕誉祐天大僧正の廟所を建立して、常念仏執行相続したきとの願いから、善久院の寺号を目黒辺りに引き移し、そこを廟所として常念仏相続せんとの趣ではあるが、右、引き寺の儀、他へ引き移すには及ばず。そのまま善久院に廟所を取り立て、常念仏を執行せば、願いの儀、粗方事済むことなり。先頃、某処での出火の節、類焼の寺院のみならず他の寺院も、以降は寺地堂宇ともに狭めるべく、お上のお達しあり。爾来この段、守らねばならぬ。しかれども、善久院に廟所を取り立て常念仏執行せば、このお達しに触れず。よって、引き寺として善久院の寺号を、他処へ引き移すこと、罷りならぬ」
この仰せに祐海はただちに、龍土町の祐天大僧正の隠室取り払いの件につき、土井伊豫守殿の役人矢野五郎右衛門に問い合わせました。

すると、矢野五郎右衛門は、
「顕誉祐天大僧正の百か日までは、取り払いの延引すでに免された。しかし、いずれにしても、あまり長引けば、地主原田半三郎から取り払いの催促がまいろう。来る閏10月中旬までに、龍土町の隠室を取り払うがよい」
と答えました。

閏10月9日、増上寺の役者衆へ祐海が面会、祐天大僧正の遺言につき、善久院に廟所を建て、常念仏執行相続したき旨を諮ると、
「まったくもっともに存ずる。一刻も速く絵図を認め、それを土井伊豫守殿に願い上ぐべし」
との役者衆の一決を見て、祐海はすぐに、台徳院殿(秀忠)霊廟別当宝松院の雲洞和尚、御表独礼西応寺の寂天和尚へ、そのいっさいを申し伝えて、龍土町の隠室に帰りました。

同月10日、下目黒善久院へ、寺地見分として、龍土町の隠室納所の利憶と祐存、そのほか加藤善次郎、大工などを召し連れ、祐海は善久院に行き、新建予定の堂宇の間数などを測量して、境内絵図を作りました。

絵図には、本堂が8間に9間、居休屋から勝手までの坪数は、龍土町隠室の建坪206坪を当てて書き込み、さらにもう1枚の絵図には、建坪206坪のほかに、念仏堂72坪を朱引きして書き加え、翌11日に祐海は増上寺へ行き、役者衆に絵図につき相談してのち、同13日に、塔頭安養院吾(悟)水を頼み、絵図2枚と手紙1通を、土井伊豫守殿の役人矢野五郎右衛門に差し出しました。

同月14日の暮れがた、龍土町隠室の地主原田半三郎がたより使者があり、今日、町年寄樽屋藤左衛門がたへ、隠室の差配名主とその手代が呼ばれ、
「隠室取り払いのこと、祐天大僧正さま百か日も過ぎましたなら、取り払いを願います。もっとも、日限いつまでとは申しません。早いほどよろしい」
との催告がありました。

これにつき祐海は、翌15日、利憶を樽屋藤左衛門がたに遣わし、現時、寺社司御月番土井伊豫守殿へ、種々願い出ているゆえ、しばしの間、延引を願うとの祐海の言葉を伝えました。

同月16日、土井伊豫守殿の役人矢野五郎右衛門から祐海に、返書が来ました。
「お手紙拝見いたした。いよいよ堅固の由、珎重に存じ候。13日、安養院吾水が持参の絵図2枚を一覧したが、念仏堂は朱引きのとおりには成りがたし。顕誉祐天大僧正のご廟所の儀は、公方さまご内意からのお計らい、このことを安養院吾水にも承知されたし。今は絵図より、まずもって善久院に念仏堂を建て、龍土町の隠室から引き移り、祐海が善久院へ入院したうえで、本堂などの建立を願い出るのが、筋として順当と存ずる。絵図2枚と手紙1通は、伊豫守はまだ内見していない」  (つづく)

祐天ファミリー第20号(H11-2-15)掲載

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