明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート十二

祐天寺精史(七)

祐天上人遺骨、増上寺へ分骨

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保3年(1718)閏10月14日七時(午後4時頃)、寺社司御月番土井伊豫守殿は、増上寺塔頭の安養院吾水和尚を役宅に呼び、次のような対談に及びました。
「最前の祐海が引き寺願は成りがたきこと、御老中井上河内守さまのお書付をもって申し伝えたが、その趣に従うべきである。また、善久院に住持の儀は、いまだ誰とも河内守さまのご沙汰はない。しかしこの儀は、ほぼ祐海であると仰せられている」
「その段この吾水存じ上げませぬが、祐海はいずれ何寺かに入住の身。善久院にはおそらく、ほかのどなたかがご住職なされるものと存じます」
「善久院住職の儀は、祐海でなくては勤まりますまい。祐天大僧正のご廟所建立と常念仏執行相続というこの重き願い、ほかの者では成し遂げられぬ。このことしかと、祐海に申し達せられたし」

吾水和尚がこの趣を手紙にて祐海に伝えると、祐海は祐天大僧正が遷化ののち今日まで、その遺跡として廟所建立と常念仏執行相続の認許を第一に日々奔走してきましたが、吾水和尚を通じて河内守さまからの祐海住職という内示と、伊豫守殿の推挙にも似た力強い言葉をいただいたことで、祐海は善久院に住持する心が定まったのでした。

同月15日早朝、御表独礼西応寺の寂天和尚、台徳院殿(秀忠公)霊廟別当宝松院の雲洞和尚、文昭院殿(家宣公)の守護職真乗院の憶道和尚、そのほか祐天大僧正の法類衆、そしてしばらくして増上寺の役者円龍和尚が龍土町の隠室にまいられ、次々と壇上の祐天大僧正の遺骨に拝礼を済ませ、壇の前に左右に向かい合い着座しました。

開口一番、寂天和尚が、
「遺骨すべてとご舌根を増上寺御廟所(安蓮社)に納むべし」
と言えば、円龍和尚が、
「愚僧は祐天大僧正にお取り立ていただいた者、そのお蔭にて各ご老僧にお会いでき、しかもご厚恩を賜り申し候。それゆえこうして出席いたした次第。祐海が祐天大僧正のご遺跡建立の願は再三のこと。重大なる儀に候へども、至極ごもっともなる企てに存ずる。増上寺御廟所ご納骨のことは、祐天大僧正お1人に限らず、お代々のご方丈さまがたいずれもさようなれば、祐天大僧正のご遺骨すべてを増上寺御廟所に納めることは、必ずしも意義あるものとは思われませぬ。ご遺跡を建立して常念仏を執行することこそ、祐天大僧正はたまた弥陀世尊へのご報恩を心と形をもって表すもの。ここは祐海が切なる願いのままに任せ、増上寺御廟所へは、少しくご分骨つかまつり、残るご全骨ご舌根はご一周忌までここご隠室に祀られるが良いと存ずる」
かく双方互いに問答のやり取りがあり、結果、円龍和尚の発言に一決を見たのです。

前々から法類衆は分骨に不承知でした。しかしそのことに決着をつけるため、祐海は円龍和尚の出席を願ったのでした。祐海にとって今日の対論の場は、最も大切なものだったからです。それが円龍和尚の裁断によって、祐天大僧正の遺骨を納める廟所建立の宿願が、まさしく達成されたことは、ひとえに三宝(仏、法、僧)の加護であり、議論が比較的に静穏のうちに進められたことも、まことにありがたいことでした。分骨は小さな茶碗ほどの銅瓶に入れ、増上寺御廟所の中段に納められました。

同月17日、祐海は伊豫守殿が指示したごとくに、祐天大僧正の遺跡建立の段取りとして、まず祐海が善久院へ入住、次に廟所ならびに常念仏堂建立の順で願い書を認め、伊豫守殿の役宅に行き、役人矢野五郎右衛門へ差し出しました。伊豫守殿はその願い書を五郎右衛門から受け取ると、内見して文言を少々直し、五郎右衛門に差し戻しました。

五郎右衛門は、
「この願い書をもう一度認め直し、封状にして当役宅へ届けられたし。絵図面は安養院吾水和尚に持参して、吾水和尚より伊豫守殿へ差し出すべし」
と祐海に手渡しました。

祐海は龍土町の隠室に帰るとすぐにそれを書き改めて、使者に五郎右衛門のもとへ届けさせました。
使者が五郎右衛門から預かってきた、祐海宛ての返書には、次のように記されていました。
「今朝、伊豫守が河内守さまに遺跡建立の詳細につき、その意向を承る。認め直した願い書は確かに受納した。ほどなく河内守さまにお会いする。絵図面は吾水和尚が持参する旨を伊豫守は承知である」
これより先同月16日、深川の霊巌寺吟達和尚から吾水和尚へ、手紙にて次のことを知らせてきました。
「龍土町隠室の取り払い延引につき、先日、拙僧が大目付横田備中守殿の役宅へまいり、直々に頼み入り、後日、備中守殿の役人高主紋太夫にこの延引のことを伺うに、紋太夫より返書があった。
『備中守が各関係の方々にお会いし、延引につき内談されたが、各ご歴々いずれも、この件につき伊豫守殿のご判断をお待ちとのよし。各ご歴々も延引の儀には異議なしと存ぜられる。よって、延引はいつ頃までと日限を定めて、改めて1日も早く伊豫守殿にその延引願を差し出されるよう、祐海に通達せよ』
との文面である」

同月21日、吾水和尚から祐海へ手紙が来ました。
「去る18日、善久院覚随和尚に隠居を申し渡し候。1両日中に善久院を受け取りうるであろう。ただし、善久院は覚随の隠居所築造の作事場となっている。それゆえ、受け取られても直ちに龍土町隠室から留守の者を善久院に呼び置くのは難しい。なお、覚随和尚は整理の間、善久院にいる。覚随和尚の仏具や生活用具は、おおかた、今日明日中には運び出すとのこと。明後日頃には、善久院を受け取れる手はずである。さようご心得くだされ。それに、龍土町隠室の取り払い延引願を、急ぎ伊豫守殿に差し出されたし」

同月22日、祐海は安養院に行き、吾水和尚と対談しました。
「いよいよ明日、善久院を受け取り申し候。21日の貴僧よりのご助言どおり、善久院を受け取りすぐに龍土町隠室から留守の者を善久院に入れては、覚随和尚の退出などに障りともなりましょう。したがって、まずもって明23日五時(午後8時)頃までには、覚随和尚が差配の墓所を某祐海に引き継がせいただきたく、貴僧より覚随和尚へお伝えくださいますこと、お頼み申し上げる次第にございます」 (つづく)

祐天ファミリー22号(H11-6-20)掲載

TOP