明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート13

祐天寺精史(八)

吉宗公、祐海を善久院住職とする

 祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保3年(1718)閏10月28日七時、寺社司御月番土井伊豫守殿から、増上寺の塔頭安養院の吾水和尚と龍土町禅室の祐海あてに、今日中に奉行所に来るよう、役人矢野五郎右衛門の差し出しで呼び状が届きました。

即刻、吾水和尚と祐海が奉行所に向かうと、伊豫守殿が直ちに、次のように言い渡しました。
「祐海儀そのほう、下目黒村善久院の住職に決定した。かつまた善久院に祐天大僧正の廟所ならびに念仏堂(本堂)の建立、その念仏堂にて常念仏執行相続の儀も、願いのとおりいずれも、公方さま(吉宗公)格別のお免しである。早速、増上寺の方丈演誉大僧正に伝えられよ。決定に至るまでご尽力された方々に、お礼廻りされたし。

さて、祐海が住職のこと、本来ならば増上寺方丈より申し付くべきところなれど、祐天大僧正のご遺言なれば、公方さま御直々の仰せである」

2人は厚く深謝の言葉を伊豫守殿に述べ、奥の間から下の間に出ると、小声で五郎右衛門が2人に、
「念仏堂は新規建立の許可。そのこと心得られよ。また、祐天大僧正の禅室の建坪を、龍土町より下目黒村の善久院へ引き移すにあたり、その建坪間数などを記した朱絵図を、明日にも早々に当奉行所に差し出すべし。最前も申したとおり、新規の建立においては、その坪数を必ず龍土町の禅室より減らされよ。これは伊豫守1人の了簡ばかりではない。他の奉行衆も同様の意見であり、公方さまの仰せだからである。とにもかくにも、減坪されるが肝要である」
こう助言しました。吾水和尚と祐海は奉行所をあとにし、すぐに御用番御懸りの老中井上河内守殿、そして他の奉行衆に残らずお礼廻りをしました。そのあと吾水和尚は安養院へ戻りましたが、祐海は夜の六半時頃に増上寺の住職演誉大僧正に面会し、今日、伊豫守殿から伝えられた次第のいっさいを、逐一申し上げました。

方丈はことのほか喜ばれ、
「かように奉行所にて住職を仰せ付けられしこと、かつてわが浄土宗にこれなし」
と祐海に賛辞を贈りました。この吉報を聞いた役者円龍和尚は、その夜安養院に赴き、祐天大僧正の廟所建立の許可と、祐海の住職決定などの慶事を、ともに祝いました。

同月29日、龍土町から下目黒村へ引き移す禅室の建坪間数などを認めた朱絵図と、龍土禅室の取り払い延引の願書を、吾水和尚が奉行所に持参すると、それを五郎右衛門が受け取りました。

延引の願書は、次のような文面でした。
「祐天大僧正の龍土町の禅室は、遷化ののち中陰まで、供養の法事を執り行うにつき、そのままに指し置く旨のご沙汰を以前いただきました。しかし中陰も過ぎましたゆえ、取り払いいたそうとしておりましたところへ、このたび、善久院へ祐天大僧正の廟所と念仏堂の建立のお免しが下されました。これにより、ただ今までの善久院の5間4面のお堂、2間に7間の小屋を取り崩し、龍土町禅室の建坪を減らした規模の、新規の念仏堂ほかの建物を、善久院に築造したき存念にございます。なにとぞそのときまで、龍土町の禅室は今までどおり、そのまま指し置きくださいますよう、お願い申し上げます」

また朱絵図に記された念仏堂などの間数は、次のようでした。


念仏堂は6間に7間。4方へ錣が9尺ずつ。向拝は3間に2間。
結衆部屋(結衆寮)に取り付ける廊下は2間に2間。


結衆部屋は4間半に4間半。
東のほうへ錣が9尺に4間半。
南のほうへ庇が3尺に4間半。
廊下は1間に3間半。


玄関は2間に3間。式台は2間に9尺。


仏間は2間に2間半。
座敷は6間に6間。
錣は9尺に6間。
庇は3尺に4間半。
表庇は1間に4間半。


小寮は4間に4間。
下屋は1間に4間。
庇は3尺に4寸。


居間は4間半に5間。
下屋は9尺に5間。


茶の間は6間に6間。
表のほうの下屋は9尺に6間。
庇は3尺に6間。


庫裡は6間に7間。
南のほうの下屋は9尺に7間。
西のほうへ庇が3尺に7間。


土蔵は2間に3間。
同じく土蔵が2間に2間。


長屋は2間に8間。


門は9尺。両方へ4尺5寸ずつ。
左右に塀と3尺のくぐり。
門の入口の番所は1間に9尺。

なお、念仏堂より結衆部屋までの75坪は新規の許可。勝手向きの分は、龍土町禅室の建坪206坪のうち、 22坪7合5夕を減し、朱絵図を仕立て候。
後日、龍土町禅室の取り払い延引の期限が、明年2月某日までと、伊豫守殿から祐海へ通達がありました。

11月4日、明日5日の九時過ぎまでに、奉行所に来るよう伊豫守殿からの呼び状が祐海に届きました。

5日九時頃、祐海は奉行所に参上、五郎右衛門の取り次ぎで伊豫守殿に対面しました。すると伊豫守殿は、
「善久院へ龍土町禅室の建坪を引き移す儀、重ねて公方さま御直々のお免しあり。この儀は寄合席にて申し渡すべきことなれど、祐天大僧正のご遺言なるをもって、公方さま別段の仰せ付けである。よって当奉行所において、そのほうに申し渡す」
このように祐海に伝えました。祐海が伊豫守殿に御礼を申し上げ、奥の間から下の間へ退くと、五郎右衛門が祐海に、
「何事も別段のお免し。至極、重畳結構なるご首尾。めでたく候。なお、作事奉行の見分は不要の旨、伊豫守が申され候。このことしかと相い心得られよ」
と言葉を添えました。

祐海は、祐天大僧正の廟所と念仏堂の建立という、この大望成就の本懐が遂げられたのは、偏に師である祐天大僧正の高徳ゆえと、その悦びはまた一入でした。(つづく)

祐天ファミリー24号(H11-12-1)掲載

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