明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート15

祐天寺精史(十)

祐天寺善久院の始まり

 祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保4年(1719)2月10日七時、増上寺の役者円龍和尚と随澄和尚から龍土町隠室の祐海へ、寺社奉行御月番である酒井修理大夫殿の役人望月平右衛門と野石六郎衛門の連名で、次のような書簡が届いたと知らせがありました。

下目黒善久院へ相い達せらる儀これあり候間、この手紙お届、追付け参られ候よう、仰せ遣わさるべく候。もっとも各のがたの内、ご一人お出で候ように、修理太輔申され候、已上         2月10日

上の呼び状について即刻、祐海が増上寺に参上すると、しばらくして随澄和尚が祐海のところに来られ、

「善久院の寺号のこと、祐天寺と願いのとおり、公方さま(吉宗公)よりお免しあり。ただし、善久院を相い改めて祐天寺と称えるわけではない。あくまでも、祐天寺善久院と連続して称えるようにとの仰せである。
また、善久院へ入院する祐海へ申し渡すこの寺号公称許可の趣を、まず役者から方丈演誉白随大僧正へ報告されよと公方さまは仰せられ、殊のほかお悦びの御意これあり。
なお、修理大夫殿よりの差し図ではないが、御老中井上河内守殿へは今日中にお礼に行かれ、役者仲間である塔頭池徳院の吟龍和尚と安養院の円貞和尚へは、その儀に及ばずとの修理大夫殿両役人からのご伝言でござる」

祐海はこの寺号公称許可の吉報を随澄和尚から達せられ、すぐに同日、河内守さまさらに寺社奉行土井伊豫守殿、方丈白随大僧正へお礼を申し上げ、龍土町の隠室へ帰り、翌11日、修理大夫殿、寺社奉行松平対馬守殿、御老中御用番久世大和守殿、若年寄御用番大久保長門守殿へお礼回りしました。

同月14日、本丸の御老女高瀬さまが龍上町隠室を訪問、祐天大僧正仏前へお供え物を下さり、
「公方さまのお図らいで、祐天大僧正さまの遺跡建立のご許可。さらには善久院へ祐海そなたを住職となされたばかりか、この10日には、祐天寺という寺号のお免しもございました。これですべて相い調いましたこと、高瀬うれしく存じます」
と、祝いの言葉がありました。

祐海は高瀬さまの協力により、善久院に入院以前に、寺号を祐天寺と公称することができたことなど、万端成就した旨のお礼を、篤く高瀬さまに申し上げました。

同月17日、龍土町の隠室から下目黒村の祐天寺善久院へ、祐天大僧正の真影(木像)と舎利と舌根、そして祐海が晋山しました。朝五時に龍上町を出発した行列は、増上寺の学頭利天和尚、役者円龍和尚など43僧と、その僧衆の後に従う祐天大僧正の信徒、行列を警護する武上と足軽ほか、総勢2、OOO余人から成る大行列でした。翌18日から20日頃まで、増上寺の月行事衆や伝通院ほかの僧が来寺して、祐天寺善久院の開山として仮本堂に安置された、祐天大僧正の真影前へ供物を捧げ、同時に第2世として入院した祐海へ、祝いの詞と扇子3本入りの箱を、各僧がご祝儀にうやうやしく贈りました。

同月21日、西の丸の大英院さまから行器1組と、夫君である文昭院殿家宣公の遺品、金襴の装束で裏地が紫の羽二重、それに金3両が祐天大僧正の真影を祀る内陣の装飾用にと届けられました。この装束は真影を安置した仮本堂中央段の天蓋として使われました。

同月23日、家宣公の側室である一の御部屋法心院さま、二の御部屋蓮浄院さまから行器が各1組ずつ贈られ、また、綱吉公の養女で尾張若狭守(前田吉徳)殿の室となった松姫さまからは、祐天大僧正仏前へ金5百疋と昆布1箱、蒸籠5組を下さる手紙が寄せられました。同日、綱吉公の側室三の丸(鶴姫の母、於伝の方)さまから、紗綾2巻が祐天大僧正の真影前にと下さいました。

6月28日、本丸の御老女三宝さま、外山さま、田沢さま3方が、祐天寺善久院に参詣され、それぞれ銀3枚ずつを祐海に手渡しました。7月11日、蓮浄院さまが白銀3枚を祐海に下さいました。

10月15日、祐天寺善久院に増上寺38世演誉白随大僧正から、塔頭池徳院吟龍和尚、安養院円貞和尚、増上寺随澄和尚、円龍和尚の4役による連名で、次のような「祐天寺定書」が下されました。



武州荏原郡下目黒村の善久院は、寛永3年(1626)、法師覚随が草創せる蘭若にして、北川氏善久院が寄附の勝境である。当山内は月界院が支配の内寺である。しかるにこの歳、享保3年(1718)10月、当山36世大僧正顕誉愚心祐天大和尚の遺意を仰ぎ、附弟香誉祐海が上聞に達して寺宇を再建し、かつ台命を蒙り、明顕山祐天寺善久院と号せし不断念仏三昧の道場である。その趣は詳かに寺録に記録させること。


月界院が支配する内寺の式を改めるにつき、その報謝料として月界院へ祠堂金これを寄附し、此度、仏殿、坊舎を新たにことごとく建立し、古境内のほか四隣の百姓屋と引き替えの地面は、おおよそ1万坪に及び、かつ常什物などこれ皆、顕誉大僧正の余功によって成るところである。しかる間、住持職の儀は、弟子と法縁とをもって相続すべし。もし嗣法の内、相応の僧侶これなきにおいては、諸余の内寺、大檀那寺とは各別の筋なれば、当時住持の願望に任すべきのこと。


許命によって、廟所を遺跡と為すうえは、顕誉大僧正の真影をもって中央となす。けだし今般、当山末寺の式に准ずといえども、その濫觴は各別たるの間、本末の格式と年礼とはこれを相い勤め、その余の儀は、府外の寺院のごとくに、ご法事不出勤の例に任す。ご仏殿および開山忌などへの出勤は、ご容赦たるのこと。右の条々は、その寺、永代の亀鏡となすべき旨、大僧正より仰せ渡され候条、聊かも異変あるべからざることなり。   10月15日    (つづく)

祐天ファミリー26号(H12-4-15)掲載

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