明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート16

祐天寺精史(十一)

本堂入仏供養会と千部読経修行

 祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保4年(1719)7月15日、祐天寺善久院の本堂(横6間、奥行き7間)が落成しました。この日は、同年2月17日に麻布龍土町から祐天寺善久院の開山として入山した、本尊仏である祐天大僧正の尊像を本堂の中央に安置するにあたり、その入仏練り供養の法会が執行されたのです。

練り供養の行道は、まず尊像を奉安していた仮仏間から尊像を奉持して仏間の後ろに出て、本堂の裏を通って表門の際まで練り、それより本堂まで真っすぐに練って入堂し、須弥檀上の仮厨子の中へ、祐天大僧正の随侍者香残が尊像を納めました。行道の路筋にはことごとく薦の上に薄縁を敷き、祐海を導師とする60余僧と、尊像を造像した大仏師竹崎石見など関係者が10人、さらに武家や町役人、そのほか好身の面々が僧衆のあとに従い、ともに行道しました。行列の左右には小石川御門内に屋敷を持つ、高松中将殿(松平讃岐守頼豊)の家臣、小笠原喜之丞組の足軽20人が供奉し、警護に当たったのです。

堂内の内陣には、小盛物が48品、大盛物が1対、大高杯が1対、生花の大花瓶が1対、造花の大花瓶が1対、生松が1色、大ろうそく立て5丁、膳は7菜、5菜、3菜の3種の盛り付けが供えられました。

入仏は午の中刻で、入堂した60余僧は四智讃、四奉請、四誓偈、日中礼讃、阿弥陀経などを読誦し、堂内を行導して本尊仏である祐天大僧正の尊像を供養しました。

同月16日から25日までの9日間、尊像供養の千部読経が厳修されました。これは祐天大僧正1周忌の追福でもあったのです。

初日の16日は、辰の上刻に檀的、祐弁などの20数僧が式衆として入堂し、続いて導師祐海が入堂して内陣に着坐、やがて法楽が奏され次に讃が唱えられたあと、鐃と固が鳴りわたり、祐海の拈香が済むと、式衆による梵唄、読経、後唄、念仏回向と法要は進み、午の中刻からまた同様の法要が営まれました。

千部読経修行中の22日、「明日、吉宗公が駒ヶ原へお成りゆえ、千部読経を休むように」との達しが増上寺からありました。
祐海は翌日、この休止の旨を使僧をもって、
「今日、公方さま駒ヶ原にお成りのため、千部読経を止め、26日に23日の読経を修したく願い上げます」
と寺社奉行松平対馬守殿に申し出ると、対馬守殿は、
「ごもっとものことである」
と許可をくださいました。

23日は千部読経修行を休みましたが、大勢の老若男女が祐天寺善久院に参詣しました。

同月26日の八時、滞りなく千部読経が満行し、この法要に出仕した僧たちは、書院において祐天大僧正の舎利に讃礼しました。

この千部読経修行などの10日間に、前代未聞と言えるほどのおびただしい数の参詣者が、祐天寺善久院の境内を埋め尽くしました。

祐海は祐天寺善久院に入院するについて、師である祐天大僧正の1周忌までには本堂を落成させ、千部読経を修行し、それを報恩に資したいと願っていたのです。その宿願が今日かなったのです。それに明年から毎年、信徒の法界結縁のために、千部読経を修行したい存念を持っていました。

同月27日、祐海は対馬守殿へ入仏供養会と千部読経修行が無事満了した旨の届けを出しました。対馬守殿は祐海に会い、特別にねんごろな言葉をかけてくださいました。

その日、祐海は対馬守殿の役宅を出ると、土井伊豫守殿など他の寺社奉行へも残らずお礼回りし、ご老中井上河内守さまへも参上してお礼を申し述べました。また祐海は、増上寺の方丈演誉白随大僧正へ参上し、入仏供養会と千部読経修行が終着したお礼として銀3枚を差し上げ、さらに所化役者の円龍和尚と随澄和尚、寺家役者である塔頭池徳院の吟龍和尚と安養院の円貞和尚へ、それぞれ金200疋ずつ、増上寺の白冏和尚へは金100疋、帳場の衆へは銀5匁ずつ、取り次ぎの役人へ金300疋を差し上げました。

本堂が新建されるに先立って、その費用にと、西の丸にいられる文昭院殿(家宣公)の正室天英院さまから、御文庫内の金300両がお附の年寄岩倉殿を使いとして祐海にくださり、吹上御殿の文昭院殿の側室月光院さまからも、御文庫内の金300両がお附の年寄園田殿の手紙を添えて、祐天寺善久院と大奥との連絡係であるかね姥を通して祐海にくださいました。

また、常憲院殿(綱吉公)の正室浄光院(従姫)の姪で、常憲院殿の養女となってのち、水戸吉孚に嫁いで小石川御門橋前の、水戸屋敷内に新造された邸宅に住む養仙院(八重姫。随性院)さまから金100両が、さらに常憲院殿の養女となって加賀大守の松平若狭守(前田吉徳)へ嫁した本郷屋敷の松姫と、内堀の馬場先御門内に建つ御殿の竹姫さまから、金50両と金30両が、また、竹姫さまと同じ門内にある御用屋敷に住む、文昭院殿の側室法心院さまと蓮浄院さまから、合わせて金100両が祐海に贈られました。

そのうえ、右の方々のその他のお附の年寄方を初め、大奥惣女中方と祐天大僧正に帰依する諸侯方から、心篤い進物がありました。祐天大僧正が存命中、諸寺院修復の一助として準備されていた金子も、天英院さま月光院さまなどから寄せられた資金とともに、本堂建立に使われました。

とりわけ、天英院さまと月光院さまからの金子は、本堂内陣の合天井の組物と、葵紋を付けて塗りの彩色を施した乱間の彫刻、内陣の装飾として張り付ける惣金物類、そして外陣天井の材木の代金に用いられました。

この葵紋については、天英院さまお附の年寄岩倉殿に、その使用の諾否を伺うと、「差し支えなし」
とのお免しがありました。

本堂が落成する以前の7月5日、祐海は伊豫守殿へ参上して、取り次ぎの役人矢野五郎右衛門へ、念のためこの葵紋使用の届けを出しておいたのです。

そのとき五郎右衛門は、
「この儀を伊豫守に確かに伝えるが、祐天寺善久院は他の寺とは異なり、格別に高位の寺なれば、天英院さまご寄付のご金子にて成れるご紋とのこと、それがし五郎右衛門、謹んでお聞きした。ただちにこの届け出を、しかと伊豫守に申し伝える」
と答えました。  (つづく)

祐天ファミリー28号(H12-9-1)掲載

TOP