明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート17

祐天寺精史(十二)

祐天上人の宮殿造立と供養会

 祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保4年(1719)4月21日、内堀の馬場先御門内の御殿に住む竹姫さまから、開山祐天大僧正の尊像を安置する宮殿を寄進したいという内意が、かね姥を通じて祐天寺善久院の住職祐海に伝えられました。

同年9月13日、竹姫さまの代参である御局本性院殿が祐天寺善久院に参詣し、祐天大僧正の尊像を安置する宮殿を寄進するにあたり、その造立金として乾金65両を持参され、祐海に下さいました。その節、宮殿には葵の紋を付けるとの竹姫さまの言葉も本性院殿からありました。本性院殿は祐天寺善久院と師檀契約をされてのち、初めての来寺でした。

10月7日、完成した宮殿を宮大工の棟梁奥田甚兵衛が人足に指図しつつ神田の工房から祐天寺善久院に搬入すると、本堂の須弥檀上の仮厨子に替えて、新造の宮殿をそこへ安坐し、祐海が見守る中、香残が祐天大僧正の尊像を宮殿に移しました。宮殿は奥田甚兵衛のほか、同じく宮大工の伊右衛門、彦三郎、清次郎、源次郎、幸阿弥仁兵衛らが造り、金泊は森田重兵衛、金具は茂兵衛、彩色は山口里左衛門がそれぞれ任に当たりました。

とりわけ奥田甚兵衛は、本堂の建立に際してその総指揮を執った職人で、3月5日の釿初式の主役を務めたり、5月21日には深川の木場から船積みで品川まで本堂造営のための用材を運送する人足らの指示、品川から牛車で祐天寺善久院へそれを運び入れるときの差配もしました。また、同月27日の本堂の柱立に続いて6月3日午の上刻には、宮大工の頭10人余を率いて本堂の上棟式を済ませ、7月15日には本堂を落慶させる大業を果たしたのです。本堂の屋根裏に納められた、長さ5尺3寸、幅1尺2寸、厚さ1寸8分の棟札に、棟梁奥田甚兵衛藤原清政の名が見えます。

宮殿に祐天大僧正の尊像が安置されたことで、10月11日から500日間の常念仏修行と、5日間に渉る宮殿安坐と祐天大僧正の尊像移座の供養会が執り行われました。11日には増上寺の住職演誉白随大僧正が、所化役者の円龍和尚と寺化役者である塔頭安養院の円貞和尚を伴い来山し、常念仏修行の開白と宮殿安坐ならびに祐天大僧正の尊像移座供養会の導師を勤めました。

この日、白随大僧正が本堂に入堂して須弥檀前の導師の座に着坐し所作が済むと、常念仏修行そして宮殿安坐と尊像移座の法会が始まりました。法会は四奉請、阿弥陀経の読誦、次に行道へと次第し、白随大僧正が内陣に入られ宮殿前に坐すと、祐海が宮殿の扉を開きました。そのとき、祐天寺善久院の祐円、祐益、香残を初めとするおよそ30余僧の式衆による讃が唱和され、白随大僧正が祐天大僧正の尊像に合掌し、焼香回向して十念を称えたのち、再び導師の座に戻って所作を繰り返され、起座して式衆を従え退堂されました。祐天大僧正の尊像前の式台に備えられた白木の三方には、3汁9菜、吸物2つ、干物5種、干菓子と茶と蒸菓子の3品、柿と葡萄などの水菓子が盛り付けてありました。白随大僧正が増上寺に帰られたのは、その日の七時でした。

宮殿内部の側面裏側に棟札が入れられました。その表には中央に南無阿弥陀仏の六字名号、その下に前大僧正祐天宮殿とあり、右側には常憲院殿御息女竹姫君御寄付也、左には供養享保4年己亥天十月十一日大導師演誉大僧正と書かれ、裏には中央に祐海の誉号である香誉、その右には祐天寺善久院の山号明顕山、左には御影松姫君御施主、供養享保四己亥正月十五日、縁山演誉大僧正大導師とあり、その下方には棟梁奥田甚兵衛ほか前記の宮大工、箔方、彩色方、金物方の名が連ねられていたのです。

10月11日の法要には、松姫さまが蒸籠5組を、竹姫さまが行器1荷と昆布1箱を下され、この日にはまた、祐天大僧正の法類や好身の僧俗がそれぞれ手伝いとして登山しました。11日から15日までの5日間、日中法要の厳修と祐天寺善久院に参詣した多くの老若男女を聴衆に、毎日本堂で説法が行われました。特にこの15日は、増上寺から祐天寺善久院に、寺格の定書が布達された日でもあったのです。

12月1日、祐海はその定書を拝受するために、増上寺と祐天寺善久院との間を取り次ぐ塔頭月界院の知勧和尚に同道して、増上寺住職の居宅である方丈へ参上し、所化役者の随澄和尚と円龍和尚、寺化役者の吟龍和尚と円貞和尚、それに寮舎の坊主の案内で、白随大僧正のご前に罷り出ました。すると白随大僧正は、定書を自ら祐海に手渡されたのです。この定書の分段については、すでに「祐天ファミリー・26号」の祐天寺精史(十)で記したとおりです。

帰寺後、祐海は思いました。
「祐天寺善久院の本堂成就は、ひとえにわが師たる祐天大僧正ご遺徳のご余光であり、公方さま(吉宗公)のご威光ゆえである。そのうえ、松姫君さまからの祐天大僧正の尊像ご寄進、さらには竹姫さまからの宮殿のご寄附など、いずれも皆首尾良く調ったこともまた、祐天大僧正と公方さまのお力である。これは祐天寺善久院末代に到るまでの希有なる嘉慶である。

かつまた、祐天大僧正が存命中、文昭院さま(家宣公)、桂昌院さま(綱吉公の母。三の丸さま)、明信院さま(綱吉公の息女鶴姫)がたが、祐天大僧正を敬慕し崇信され、ご他界後いずかたも増上寺に斂葬されたこともまた、祐天寺善久院建立に力あずかったことは言うまでもあるまい」   (つづく)

祐天ファミリー29号(H12-12-1)掲載

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