明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート18

祐天寺精史(十三)

本堂の建立と六字名号

 祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保3年(1718)閏10月28日、祐海は本堂すなわち念仏堂の建坪ならびに間数を記した絵図を持ち、浜町入堀南側の寺社奉行御月番である土井伊豫守殿の役宅へ参上し、その建立許可の願いを申し出ました。

同年11月5日、祐海は伊豫守殿に呼ばれて同所に赴くと、本堂の建立許可が伊豫守殿から祐海に達せられました。本堂の大きさは横6間に奥行7間で、1間が7尺5寸の間隔でした。また、梁は3間に桁行が4間、4方へ9尺ずつの錣を取り付け、向拝は横3間に奥行2間という絵図でした。

同4年2月22日、本堂建立区画の地取が地形頭佐藤加兵衛の指揮のもとに済み、その場で祐海を初めとする祐天寺善久院の僧衆20余名が、阿弥陀経の読誦と念仏回向を修しました。

同年3月5日、本堂の釿初め式が宮大工の棟梁奥田仁兵衛の先達によって執り行われました。

同月6日から本堂建立地の基礎工事である地形に取り掛かり、まず地面の黒土を取り捨て、そこに赤土と砂利を等分に敷き詰めて突き固め、平地から高さ2尺のところまでそれを築き、4月23日にこの工事が整いました。

同月24日から、柱下に置く柱石を支えるための土台を造る4尺4方の穴を、区画の38か所に堅土の地山までそれぞれ掘り下げ、各柱石の穴の1つに突き石40個ずつを入れました。そして60人掛かりの重さの突き木に括り付けた網を滑車で引いて胴突きし、各穴の石を地形の面と等しくなるように平らに突き固めました。その折、3人が周りで木遣りを詠じて引き網の調子を取り、5月13日までにこの柱石の地形が済み、翌14日に地形全体の水平を測る水盛を行いました。

この地形の地均と胴突きには、目黒ばかりでなく渋谷などの各村方と町方から幟を立てて大勢の人足が集まり、また参詣の人々も多く加わって、延べ1、500人に上る信徒が力を尽くして完成しました。

これより先3月6日、伊豫守殿の役人矢野五郎右衛門から次のような手紙が祐海に届いていました。
「念仏堂が出来して本尊仏たる祐天大僧正の尊像安置が済みしだい、早速にも当寺社奉行所へその旨を申達せよ」との伊豫守殿からの言葉でした。

3月10日、吹上御殿の月光院さまから祐海に何かと心遣いがあり、保養に用いられたしと朝鮮人参若干に金2両を添え、かね姥を使いとしてそれを祐海にくださいました。

4月18日、西丸の天英院さまから文昭院殿(家宣公)の遺品装束のうちの、裏地と表地各1枚と金5両が、本堂内陣の荘厳用にと祐海のもとに届けられました。

5月9日、本堂柱石の据え付けがあり、ことに祐天大僧正の尊像を奉安する、新造の宮殿の後部に立てる来迎柱の柱石の下には、祐天大僧正が存命中に石に直筆した六字名号を納めました。また、その他の各柱石の下には祐海が認めた六字名号の丸石、そして本堂建立の縁由ならびに法縁と好身の出家者と在家者の名を委細に書き記した石を、本堂の石垣に組み入れました。

本堂内陣下の地形土には、祐天大僧正が晩年に居住した麻布龍土町の禅室居間下の土を敷きました。

同月21日、本堂の切組に用いる材木を深川の木場から品川まで船積みで搬送し、そこから奥田甚兵衛差配で祐天寺善久院まで牛車で運び入れました。この日、月光院さまが赤地金襴の葵御紋付きの幢幡を寄進され、手紙を添えてかね姥に持たせ祐海に届けてくださいました。

同月27日までに本堂の柱立が済みました。6月3日午の上刻、本堂の上棟式が奥田甚兵衛を主役として大工10人余が大紋の半纏を着し、本堂の屋根下で荘重に行いました。そののち地形から屋根の上まで大竹10数本を使って組んだ幅6尺の登り道が作られました。屋根の上には横2間に竪3間の板鋪を置き、その上に薄縁りを敷いて弓矢などを飾り立て、備え餅3餝りと神酒3対と洗米3升を各白木の三方に載せて備え物とし、さらに懸け銭5貫文、蒔き銭3貫333文、それに白米5升と蒔き餅3、000を用意して、諸天善神に備えました。

すでに棟梁奥田甚兵衛らによる上棟式が済んだので、次に祐天寺善久院の祐海ほかの僧衆一同が大竹で作った道を渡って屋根に登り、護念経と念仏回向を誦えたあと、蒔き餅と蒔き銭を境内に参集した数千人の参詣者に蒔きました。この上棟式当日、祐天寺善久院のある下目黒の名主と農民、大工、諸職人に、祝儀の金子と1汁5菜の食事と酒が出されました。

上棟式に際して、天英院さま、月光院さま、本郷屋敷の松姫さま、内堀の馬場先御門内御殿の竹姫さま、同門内の御用屋敷に住む法心院さまと蓮浄院さま、そのほか大奥の御年寄衆などへ、この規式の備え餅を開き文に1つずつ入れて差し上げました。また、増上寺方丈の演誉白随大僧正、所化役者の利天和尚、台徳院殿霊廟別当で祐天大僧正の弟子である宝松院雲洞和尚と、別格寺独礼の西応寺寂天和尚そして文昭院殿霊廟別当の真乗院億道和尚などへも、備え餅が贈られました。上棟にあたって長さ5尺3寸の棟札が棟木に取り付けられました。

7月15日、祐天大僧正の1周忌に本堂が落成しました。本堂の内陣中央須弥壇に新宮殿に納められた祐天大僧正の尊像を奉安し、その安座の法会と本堂慶成の供養会が、同月16日から26日までの10日間にわたり厳修されました。

本堂の38本の柱には次の意旨が込められていました。すなわち祐海は地鎮から落成に至るまで、別して阿弥陀経を読誦し念仏回向してその安鎮を祈り、各柱石の下には大蔵経典の文字を書写した一字一石経である丸石を入れ、その38の数に3つの祈願を託したからなのです。つまりその数とは、内陣の柱12本は無量寿経に説く阿弥陀仏の12種の徳号を讃える12光仏であり、外陣の柱24本は、同経に立てる阿弥陀仏の48願中の第18願さらには南無阿弥陀仏の六字名号であり、向拝左右の柱2本は観世音菩薩と大勢至菩薩であるからなのです。そればかりか、祐天大僧正は増上寺の36世の方丈であり、祐天寺善久院は祐天大僧正を開山と仰ぎ、祐海自らは2世となるところから、これを合すれば38となり、さらにこの本堂を成就した祐海の年寿が38歳であり、ことごとく皆38の数に符合するからなのでした。 (つづく)

祐天ファミリー30号(H13-4-15)掲載

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