明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート21

祐天寺精史(十六)

月光院さま、『御伝』を寄附

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

 宝永8年(1711)3月5日、京都所司代松平紀伊守殿の役人である、安達喜兵衛と神門新左衛門から知恩院役所の塔頭光照院へ、次の書簡が届きました。

明6日、二条御城内の所司代屋敷まで来参されたし。

翌6日、光照院が参上すると、安達喜兵衛が出合い、
「かねがね知恩院住職円理大僧正が仰せられる『法然上人行状絵図』すなわち『御伝』48軸を、公方さま(家宣公)御上覧したき旨の知らせが、寺社御奉行御月番の森川出羽守殿から紀伊守にござった。しからばその『御伝』を江戸へ送り届けられるよう、紀伊守の言葉にござる」
こう光照院に伝えると、
「幸い、知恩院塔頭の保徳院が、ただ今江戸に在府ゆえ、今晩にもその旨を書簡に認め、公方さまへ『御伝』を御上覧に入れらるるよう相勤めるべく、それまでは江戸へ逗留せよと伝え置きます」
光照院は安達喜兵衛に答えました。
同月7日、光照院から保徳院へ書簡が来ました。

こたび、公方さま『御伝』を御上覧の儀、寺社御奉行御月番である森川出羽
守殿より御所司代紀伊守殿を通じて仰せ渡された。近々、『御伝』到着以前
に保徳院が帰京の御用あるとも、引き続き江戸に逗留して、公方さまへ『御
伝』を御上覧に入れられるべく、『御伝』の侍僧として遣わす塔頭九勝院と
ともに、しかと勤められたし。

同月10日、光照院から所司代紀伊守殿へ「口上書」が差し出されました。
『御伝』は来たる13日、江戸へ向かいます。道中、搬送人足は4人。宿次各駅にて4人ずつ入れ替わります。『御伝』を納めた箱は小さめの長持1棹ほど。重さは20貫目。九勝院が江戸へ同道いたします。
同月13日、所司代紀伊守殿から書状を持って、道中、大津そして品川までの宿次各駅へ、

知恩院より江戸まで、『御伝』を納むる小長持1棹ほどの箱1つ。九勝院が
守護して江戸へ到る。宿次各駅にて入れ替え人足として、各4人を出せ。

と、伝達されました。
また、保徳院は光照院から次の長い書簡を受け取りました。

昨12日、御所司代紀伊守殿へ塔頭九誾院が伺公し、役人安達喜兵衛と相い談
じた。その趣は『御伝』が江戸へ到着次第、在府の保徳院と侍僧の九勝院が
『御伝』を何方へ搬入申し上ぐべきか。また、円理大僧正より  御老中秋
元但馬守殿や寺社御奉行御月番である森川出羽守殿以外の、他の御老中方あ
るいは寺社御奉行衆へ、公方さま『御伝』御上覧につきての書状を差し上ぐ
べきか否かを訊ねた。この問に安達喜兵衛は次のごとく返答した。
「こたびの御上覧はご内々のこと。江戸城本丸の表向にはご披露ご無用にご
ざる。したがいて、円理大僧正より秋元但馬守殿それに森川出羽守殿以外の
御老中方ならびに寺社御奉行衆へ、書状を送ることもご無用なり。他の御老
中方も寺社奉行衆も、御上覧のことはご存知ない。紀伊守が認めた書状を九
勝院に持たせ遣わすゆえ、九勝院が江戸へ着かば即刻その書状を森川出羽守
殿へ渡されよ。公方さま『御伝』御上覧の差配は、森川出羽守殿のお指図を
待たれるが良い」と。
さて『御伝』が江戸へ向かうにあたり、所司代紀伊守殿が知恩院塔頭九勝院
へとして宿次証文を発給された。しかれどもこたびは、大津より江戸までの
片道証文にござる。ご内々の御上覧なれば、公方さまの御侍講新井勘解由殿
へも御上覧の書状を遣わしていない。御上覧、早速首尾よく相い済ませられ
るよう、秋元但馬守殿と森川出羽守殿によくお頼みくだされ。御上覧につき
てのすべてのことわけは、九勝院が保徳院に述べ知らせる。

同月21日、『御伝』が江戸に到着しました。即日、保徳院と九勝院が築地南小田原町の森川出羽守殿役宅を訪い、御上覧の差配を仰ぐと、
「その方ら両僧が、直ちにこの『御伝』を馬場先御門内の秋元但馬守殿役宅まで搬入されよ」
この指図を受けて、保徳院と九勝院は但馬守殿役宅へ『御伝』を持参仕りました。

秋元但馬守殿は保徳院と九勝院に御礼を申し述べ、自ら『御伝』を納めた箱を拝受され、奥座敷にお忍びで入御されていた公方さまの御前へ、箱を開いて『御伝』を両手に捧げ持ち、慇懃に献じられました。

公方さまは緩々と御上覧あそばせられ、『御伝』の画図と詞書の美事さにご感賞の余り、その筆勢ばかりか摩耗の具合に至るまで、逐一厳密に『御伝』を摸写させたのです。摸写は秋元但馬守殿役宅で行われました。画図は御用絵師狩野如川周信、同永叔主信、同探信守政に、また伏見院さま、後伏見院さま、後二条院さま、尊円法親王さまなどの筆翰と言われる詞書は、能筆の誉高き御小納戸柴田八郎左衛門と白岩八右衛門に摸写を命じられたのです。

かようにして摸写された『御伝』48軸は、公方さまが秘蔵されておられましたが、のちに側室の月光院さまに譲られました。
享保6年(1721)8月2日、従三位月光院さまから祐天寺の住職祐海のもとへ、この摸写された『御伝』48軸が送り届けられました。月光院さまは厚い思召をもって、右『御伝』と同目録1冊を葵紋付きの箪笥に納めて祐海に預けられたのです。その折お文を添えて、

歴代将軍さま御上覧を仰せ出され候節は、祐天寺がすぐにもこの『御伝』を
将軍さまへ御上覧あらせられるように。

と月光院さまは告げられたのでした。
『御伝』の画図は法然上人が80歳で滅した建暦2年(1212)正月後の、約100年を経た徳治年間(1306~1307)に、土佐吉光らによって描かれたと伝えられています。それと同目録は、京都東山蓮華光院の住職であった安井門跡道恕が、東大寺別当職を勤めていた宝永5年(1708)春に著したものです。祐海にこの『御伝』が預けられたとき、さらに2張の葵紋付きの提灯が添えられていました。(つづく)

祐天ファミリー34号(H13-12-1)掲載

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