明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート23

祐天寺精史(十八)

開山御廟造立(2)

 祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

 享保8年(1723)6月5日、増上寺の塔頭浄運院の住持である心海和尚から祐天寺の祐海へ、心得として祐天寺の境内と境外の年貢地などの儀を、書付にして浄運院まで差し出すよう申し付けてきました。即刻、祐海がその旨を記した書付を使僧をもって浄運院へ遣わしました。
同9年2月22日、増上寺の帳場の役僧義潭和尚から祐海宛てに内意の伝言があり、祐海は再び祐天大僧正の廟所建立の願書を次のように認め、義潭和尚へ持参しました。

口上之覚
一去年中、願い奉り候とおり、顕誉大僧正の廟所、何卒、境内へ取り立て申したく候へども、所々相い詰り、ただ今は取り立て申さず候、然るに今年、七回忌に相い当たり候間、如何ようにも取り立て申したく存じ奉り候、去年、願い奉り候場所の内にて、思召をもって仰せ付けなされ下され候よう願い奉り候、尤、境外右の外に御座候ては、相い障る筋も御座候間、最初申し上げ候とおりの地所へ、仰せ付けられ下され候よう、偏に願い奉り候、已上、
二月     祐天寺
増上寺
御役者中

同年3月21日、増上寺の義潭和尚から今直ぐ来山するよう祐天寺に連絡がありました。祐海が参上すると、兼て願い出ていた地所へ、顕誉大僧正の廟所造立の儀が免許された旨、義潭和尚から祐海へ伝えられました。
同年閏4月13日、開山祐天大僧正御廟の宝塔が完成しました。巳の刻、祐天大僧正の遺骨を本堂中央の御影前に安置たてまつり、その場で祐天寺の衆僧による四奉請、四誓偈、念仏回向が修せられ、本堂から衆僧が行列をなして廟所へ向かいました。先頭は洒水、次が柄香炉、次が祐天大僧正の全骨を両手に抱き戴く香残、次が奠湯奠茶、次が導師祐海、その両側に侍者の僧が各1僧、祐海の後方には20名の僧が続き、行列は1列に並んで廟所へ進み、ほどなく廟所に着きました。
廟所の四方はことごとく白幕で被われ、廟の前へ香残が祐天大僧正の遺骨を奉安しました。衆僧の四誓偈と舎利礼文が厳かに流れました。祐海が念仏回向を済ませて、六角の大きな台石の内側へ納める瓦箱に入れる硯石に、銘文を切り付けてからその銘文に朱の漆を染め入れました。硯石を入れた瓦箱は六角の台石の内側に納められ、瓦箱の四方上下は漆喰で固められ、台石が据えられました。その台石の上に丸形の台石、さらにその上に蓮華座の石が積まれ、さらにその上に宝塔が立てられました。
廟塔の建立が整うと、次に祐海を初めとして利億、檀的、祐益、香残、祐達のいずれもが焼香拝礼しました。誠に新葬のごとく、一同はみな感涙に噎びました。
それより僧衆は本堂へ立ち帰り、祐天大僧正の御影に念仏回向を捧げ、焼香拝礼しました。
開山祐天大僧正の廟塔の下へは、日本60余州の霊地霊山から少しずつ取り集めた土が納められました。その土は祐天大僧正を信仰する森田市左衛門が日本回国に旅立ち、霊地霊山から取り集めた土でした。森田市左衛門が江戸に戻る以前に祐天大僧正は遷化されました。そのため、その土を祐天大僧正の旧来の随従者であり、今は祐海の弟子となった香残が受け取って預かり、廟塔の下へこのたびその土を納めたのです。森田市左衛門は紀州の生まれで、法名を本誉浄入と申しました。
祐天大僧正の廟塔の高さは六角の台石から7尺1寸2分で、その台石には次の銘が彫まれています。

(原文)

当寺
祐天大僧正
開山

縁峰増上寺
三十六世主
行年八十二

享保三戊戌歳
七月十五日示寂
遺骨葬此廟

大僧正明蓮社顕誉
上人愚心祐天大和尚
者数応台命登一宗
棟梁坐縁峰増上貫
主爲
台霊大導師敬惟存
世化風広布四海臨終
祥雲高懸一天生益
滅瑞具不可勝計也茶
毘後収白骨多是舎利
也又不壊舌根如小蓮
一片暉光鮮白而宛類
仏舎利経中陰十旬分
骨而納容縁山歴代廟
所尊師大僧正之無縫
塔下然后全骨悉以葬
於当山且舌根舎利者
安置当寺影像前矣
猶相続師開闢臨終念仏
而永無尽供養讃嘆弟
子親戴遺命奏上草創
巨願忝蒙
台命再建寺宇新号
明顕山祐天寺爲大僧
正廟所不断念仏道場
建立享保四歳己亥天
七月十五日也更以尊師
影像爲於本尊且爲
開山是師欲謝仏祖恩
徳及法界群霊者也
武州荏原郡目黒村
明顕山祐天寺二世
拈蓮社香誉祐海(花押)

(読み下し文)

当寺開山祐天大僧正は、

縁峰増上寺の
三十六世主にして、
行年は八十二なり。

享保三戊戌歳
七月十五日に示寂し、
遺骨を此の廟に葬る。

大僧正明蓮社顕誉
上人愚心祐天大和尚
は、数ば台命に応じて一宗の
棟梁に登り、縁峰増上の貫
主に坐して
台霊の大導師と為る。敬んで惟るに、
存世の化風、広く四海に布き、臨終の
祥雲、高く一天に懸り、生きては益し、
滅しては瑞あること、具に勝げて計う可からず。
荼毘の後、白骨を収むれば多くは是れ舎利
なり。又、不壊の舌根、蓮の如くにして、
一片の暉光、鮮白にして宛も
仏舎利に類なり。中陰を経て十旬に、
分骨して縁山歴代廟
所の尊師大僧正の無縫塔下に納め容る。
然して后、全骨悉く以て当山に葬り、
且、舌根舎利は
当寺影像の前に安置せり。
猶、師が開闢の臨終念仏を相続して、
永く尽ること無く、供養讃嘆せり。弟子
親り遺命を戴き、草創を奏上し、
巨願忝も
台命を蒙り、再び寺宇を建て、新たに
明顕山祐天寺と号し、大僧
正の廟所と不断念仏道場との
建立を為せり。享保四歳己亥天
七月十五日なり。更に尊師
の影像を以て本尊と為し、且、
開山と為すは、是れ師の仏祖の恩
徳及び法界群霊に謝せんと欲すればなり。
武州荏原郡目黒村
明顕山祐天寺二世
拈蓮社香誉祐海(花押)

祐天ファミリー36号(H14-4-15)掲載

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