明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート25

祐天寺精史(二十)

公方さまお供の食膳

 祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保12年(1727)8月25日、公方さま(吉宗公)が玉川筋へ御成の折、祐天寺へ御立寄とのお達しがあり、24日の晩には祐天寺の茶堂部屋に、次の諸役人が止宿しました。

小普請方からは林小左衛門、その仮役である津田源八郎、同小普請方の手代増田惣一郎、冨永冨三郎、近田金之助、宮氏祐五郎、柴田徳次郎、御畳奉行の三輪善平、山口瀬兵衛の9方でした。

公方さまへの祐天寺からの献上物は、サメ茶屋で買い求めた、本焼の鉢に植えた松1鉢と長芋21本でした。
大書院の床の間には、室町時代末期の画僧雪村筆の龍虎図2幅の軸を掛け、その前にはのちに祐天寺7世となる祐忍が生けた、松一式から成る立花の花瓶が備えられました。

25日の五時、城の中奥から山石仁兵衛、浅野長之介、小嶋藤助、菊地長五郎の奥陸尺4人が来寺したので、役僧祐玉が出会い、公方さまお供の御本丸と西丸の3役人への膳部などの世話を頼み、住職祐海からの心付金200疋を手渡しました。
続いて城中奥の老中と若年寄が執務する御用部屋の御坊主伊東円伯と本間善甫の2人が入来したことから、役僧が応待して公方さまお供の重臣である、若年寄と御側衆への膳部の世話を頼み、やはり、祐海からの心付金50疋ずつを遣しました。そのとき、すでに認めておいた献立書をこの2人へ渡しました。
引き続き、城の中奥から奥坊主の長坂円請と田中幸安が来山したので、役僧が出会いこの2人には公方さまへの献上物ならびに御小性衆、御小納戸衆に出す食事の世話を頼み、祐海からの金50疋ずつをそれぞれ2人に遣しました。右のほか、同役8人が見えましたが、この2人以外には心付は遣しませんでした。

同日の朝五時過ぎ、御小納戸御先番の永田百助殿と小嶋定右衛門殿、大嶋左京殿が来寺して、公方さまの御座所と本堂それに諸堂の見分をしました。
祐海は小普請方役人中からの差図に従い、御成のご沙汰があるまではと、本堂へ所化の僧2人、阿弥陀堂へ1人、本地身地蔵堂へ1人ずつ、番人を付けておきました。

本堂中央の開山祐天大僧正の御影を安置する宮殿の扉と、本地身地蔵尊を祀る厨子の扉は、いずれも御成前から開帳しておきました。
昼九時頃からおいおい、御場先である玉川筋からほどなく御成とのご注進が祐天寺にあり、祐海は寺中心配りするよう、役僧はじめ一山の僧ほかへ伝えました。

本堂の飾り付けは、次のように行いました。本堂西の方は障子で〆切り、東の方は雨戸をいつものように締めて、障子だけ開けておきました。正面北の方は唐戸を残して雨戸と障子をすべて取り外し、須弥壇の荘厳具以外はことごとく片付けました。
須弥壇の上には、木蓮1対、生花1対、紙蓮1対の3対を供え、香炉は大小の2つを置きました。須弥壇には葵紋付きの打敷を掛け、戸張は葵紋付きの萌黄地を用いました。
本地身地蔵堂へ公方さまが御立入との上意ゆえ、前もって堂の内外を清掃し、荘厳を整えました。

御成の25日当日、公方さまは御膳所である目黒不動瀧泉寺にあらせられて、祐天寺では阿弥陀堂と釣鐘堂へも参拝の由を仰せ出されました。そこでこの御意を承けた祐海は、役僧らに申し付けて、阿弥陀堂の本尊前を燈籠1対、宝幢1対、前机、三具足、木蓮1対で荘厳しました。

昼九時半頃、右大将さま(公方さま、吉宗公)が祐天寺へ入御されました。御成御門の入口前に設けられた御目見の席には、小普請方の林小左衛門、代官中村八太夫、そして祐海が扣えていました。祐海は公方さまが御成御門を入られるその節に、合掌して深く一礼申し上げました。

公方さまが本自身地蔵堂、釣鐘堂、阿弥陀堂、本堂と順次に御立入なされたのは、しばらく御座所で御休息されて、やがて還御の時刻まもない頃でした。
祐海は公方さまが阿弥陀堂を参拝され、まだ本堂へは御立入になられない間、経蔵の前の桜の木の下に扣えて、阿弥陀堂の方に向かいお見守り申し上げておりました。

公方さまが御座所で御休息中、お供の衆へは、祐天寺から予定どおりの食事が振舞われました。
まず、その筆頭である若年寄の田沼玄蕃殿と御側衆の高木伊勢守殿、御小性番頭格で御用御取次見習の平岡石見守殿の3方へは、木具膳で2汁5菜、酒、核(酒の肴)などが出されました。この膳の給仕は前記の御用部屋の御坊主伊東円伯と本間善甫が勤めました。
次に、御本丸御場掛で御小納戸頭取の中野幡磨守殿、西丸御場掛で御小納戸頭取の能勢河内守殿と平岡越中守殿の3方へは、坪皿に5菜、酒、核ほかが用意されました。この食事の給仕は、奥陸尺である山石仁兵衛、浅野長之介、小嶋藤助、菊地長五郎の4人が勤めました。

右のほか、奥向の布衣(六位)以上の衆100人へは、あらかじめ打ち合わせた食事を出しました。
御鳥見衆へは新部屋において、黒膳で食事をそろえました。ただし、組頭の後藤与次右衛門殿と鹿窪吉左衛門殿の2方へは、木具膳で支度しました。なお、酒と核だけは早目に新部屋へ用意しておき、給仕の世話は日本橋音羽町と市ヶ谷の講中7、8人に、いっさいを頼みました。
御目付の石野三右衛門殿、永田義三郎殿、布衣以上の役人11人へは、念仏堂(位牌堂)にて木具膳で食事を出しました。また、御徒目付2人、御小人目付1人、御小人15人、黒鍬者2人へは、黒膳で出しました。給仕は祐天寺の出入りの者34人が当たりました。

さて、食事の献立は次のような品々でした。田沼玄蕃頭殿、高木伊勢守殿、平岡石見守殿の3方へは、盛分として、一の膳にはけんちん巻にした椎茸、枯露柿、芹、大根、人参で、それに〆じ、摘入、小蕪の汁。香の物は奈良漬、沢庵漬、菜漬で、坪皿は白みそを添えた、仏掌芋、皮牛蒡、栗に、飯が用意されました。二の膳では、平椀に松茸、嶋田湯葉、芹の盛り合わせと、仙台あられを浮かべた榎茸と豆腐ふうの汁。さらに、小丼の猪口には赤みそで和えた百合根と柿を盛り、持ち帰りの台引物は青源氏巻と花昆布で、硯蓋の盆には甘露梅、さつま揚、梨子、慈姑、唐豆腐が並べられました。お重は里芋の煮物で、小鉢には春菊のおひたし、菓子は海老糖、いろはしら、白烏羽玉でした。
中野幡磨守殿、能勢河内守殿、平岡越中守殿の3方へは、平椀、汁、香の物、坪皿、小丼の猪口、飯、硯蓋の盆、小鉢でしたが、それぞれの食器に盛られた数々は、若年寄や御側衆と同様の料理でした。
御小性衆ほかおよそ400人前の食事は、さいあげ、椎茸、人参、里芋、牛蒡を盛り合わせた平椀。小蕪と麩の汁。沢庵漬の香の物。坪皿はみそを添えた大根。小丼の猪口は酢和えで、これに飯が出されました。

祐天ファミリー38号(H14-9-1)掲載

TOP