明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート28

祐天寺精史(二十三)

二王安置供養

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保20年(1735)5月6日、祐海は使僧を寺社御奉行の井上河内守殿へ参上させ、祐天寺の表門(二王門)に二王を安置したきゆえ、その願書を取次役人である山脇弥次右衛門へ差し出しました。願書には次のように記されていました。

「拙寺表門、去年中お免しを蒙り候て、普請成就つかまつり候に付いて、先達てお届け申し上げ候。右表門の左右明き所へ、今度、立像七尺九寸の二王二体安置つかまつりたく願い奉り候。もっとも二王の儀は、顕誉祐天大僧正存生の内の心願に付いて、施主ご座候て寄進つかまつり候。之に依りて、何卒、右門内へ安置つかまつりたく願い奉り候。ご免許成し下され候わば、ありがたく存じ奉り候、已上」

8月23日、日本橋に工房を構える仏師竹崎石見采女方へ、4月中に竹姫君が申し付けていた二王二体ができ上がったとの知らせが、采女方より祐天寺にありました。祐海は祐天寺から人足6人と世話人である永井三右衛門そしてその手代2人の計9人を采女方へ遣わし、夜の五時過ぎにまず一体を祐天寺に取り寄せ、同26日の晩に同じ9人が采女方へ行き、同時刻頃に采女が祐天寺まで同道して、もう一体を当山に運び入れました。この二王の腹内には願文を墨書した板札が納められました。

10月22日、祐海は去る8月23日に寺社御奉行の井上河内守殿へ使僧を参上させた際、取次役人の山脇弥次右衛門から、「ご府内の中に、近年二王を安置した寺があれば、自他宗によらず年号、寺号などを認めた書類を、当奉行宛に差し出すように」と命じられていたことから、この日、その旨を取り調べた書付を山脇弥次右衛門へ差し出しました。
その書付には次の2か寺が記されていました。

「 天台宗     浅草清水寺
右、惣門二王安置、三十七年已前類焼。その後三十二年已前、願い上げて再建。同十八年已前類焼の節、二王門類焼。右二王門、十年已前午の年、御月番小出信濃守さまへ願い上げ再建お免し、右の二王安置つかまつり候由。

真言宗      湯嶋円福寺
右二王門、正徳二辰年建立。これは公儀より御府内証にて寺地拝領いたし、新規建立の由。その後、金子下し置かれ、普請の儀は本多弾正少輔殿へ相い願い、仰せ付けられ候由。
右二か寺承け合い候ところ、かくの如くご座候、已上」

元文3年(1738)2月5日、寺社御奉行の牧野越中守殿から祐天寺へ、「相い達する儀これあるゆえ、明六日五時過ぎ、松平紀伊守殿の御内寄合へ相い越さるべき旨、越中守申され候」という呼状が、取次役人の田中小右衛門、中川善左衛門、新井伊左衛門の連名にて届きました。同月6日、祐海が松平紀伊守殿へ参上すると、御内寄合ご列席へ召し出され、「兼ねて二王安置の儀相い願い候所、右願いの通り差し許す」と、御掛り牧野越中守殿が祐海に仰せ渡されました。そこで祐海は牧野越中守殿と松平紀伊守殿に御礼を申し上げ、その席を退出して松平紀伊守殿の役宅をお暇すると、他の寺社御奉行である板倉伊予守殿そして大岡越前守殿2方へ残らず御礼回りして、次に増上寺へその旨を届け出で、同山内の三島谷弧雲寮へ行き手紙を認め、それを竹姫君のもとへ持参して、二王安置許可のことをご吹聴申し上げました。この二王安置の許可が下ったのは、二王安置の願書を寺社御奉行へ差し出してから4年目のことでした。

祐海は帰寺の後、日本橋住の竹崎石見采女方へ使僧を出して、町御奉行の稲生下野守殿と松波筑後守殿へ二王安置の許可が寺社御奉行から下った旨を、采女方から同御奉行へ届け出るよう指示しました。

同月13日、二王安置供養の願書を祐海が持参して、牧野越中守殿へ参上しました。文言は次のようでした。
「来る三月八日より十日まで日数三日の間、二王安置供養つかまつりたく存じ奉り候。願いの通り御免許成し下され候わば、ありがたく存じ奉るべく候。已上」

右の書付は取次役人の田中小右衛門が受け取ると、17日にもう一度、当奉行所へ伺うようにとの達しが同人からあり、祐海が17日に使僧を遣わすと、「いよいよ明日、松平紀伊守殿の御内寄合へ罷り出るように」との伝達が田中小右衛門からありました。
同月18日、祐海が寺社御奉行御月番の松平紀伊守殿の御内寄合へ罷り出ると、二王安置供養について、3日の間供養いたしたき願いの趣を差し許す旨が、牧野越中守殿から祐海に直達されました。

3月8日は朝小雨でしたが、四時頃より快晴と成り、二王安置供養の法要が巳の中刻から執り行われました。本堂を出発したお練りの行列は二王門へと進みました。先頭は取持6人、座検2僧、洒水1僧、花籠2僧、幡2僧、楽人6僧、幡2僧、鐃1僧、?2僧、龠1僧、提香炉2僧、幡2僧、柄香炉1僧、座検2僧、導師祐海、侍者2僧、日傘1人、花筒10僧、取持4人の順に並び、二王門前で二王安置の法要が厳修されました。

この供養の中で祐海は、「執金剛神鎮座之意趣并祈願之誦文」を読み上げました。

「夫れ以れば、古今量を出て功ある人に於る、世を挙げてその徳を賞せずと云うことなし、又、その人没後に到て、門葉蹟を遺すを考と為す、予亦その一分也、往昔、この小崛を厳りて師大僧正祐天の遺跡と為し、忝くも許命を蒙り年を経て委く成る、然るに吉祥の先兆を祝して、門閣を立つることを後にす、嗚呼、善哉、師徳の余慶なるや、大檀那竹姫君之力精某が所願を助け、建立皆成じて、今、一宇の伽藍と為る、仍て三宝守護の為、密迹金剛神の二像を彫刻して、門中之左右に安置し、一心専精に永世護持を祈願し上るは、抑、霊神夙願に諸仏の教法を守護せられんがため矣、誠に応変無方にして仏教ある所、必ず分化してこれを守護すと云わざることなし、故に世に二王と称し、是れ一体分身也、阿吽の二躯各々降伏の相を現わす耳、然れば今宝前に拝念して、頌を以願じて曰く、
金剛宝杵は 邪を砕き正を顕し
天下安久にして 普く西化を扶け
広く法界に布き 伽藍無窮にして
真俗繁栄ならしめ玉へ
時に   明顕山祐天寺二世起立
元文三年戊午三月八日」。

祐天ファミリー41号(H15-4-15)掲載

TOP