明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート29

祐天寺精史(二十四)

祐天寺と改唱の次第

 祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保7年(1722)4月5日、寺社御奉行の松平対馬守殿から祐天寺善久院住持である祐海へ、「明6日四時(午前10時)前に役宅へ来るように」という呼状が届きました。

同6日、祐海が役宅へ参上すると、役人吉田重兵衛が取次に出て、「今月の寺社奉行御月番は牧野因幡守殿なれど、寺普請に関することゆえ、対馬守が応ずるとのことに候。今日は御内寄合へ貴僧を召さるるはず、この待合座敷にて扣え居るよう」
と吉田重兵衛が告げました。
ほどなくして、増上寺の所化役者弁弘和尚もその座敷に来られたので、「いかがの御用に候や」と祐海が弁弘和尚に内聞に及ぶと、弁弘和尚もまったくぞんじなく、役人の吉田重兵衛に問い合わせても、詳しい答えは返ってきませんでした。

それからしばらくして、弁弘和尚と祐海が御内寄合の列席へ呼ばれ、松平対馬守殿から祐海へ、次の直達がありました。
「先方は祐天寺善久院と寺号院号の連続称呼の義、願い候について御免しなされ候へども、御帳面あい改めず候ところ、このたび、月光院さまより御願いにて、祐天寺善久院を改め祐天寺と唱え申すべく御許しあり。右について、御帳面あい改め候ゆえ、新地方奉行への印状は、追って渡すべく候。右、御礼として戸田山城守殿へ参上つかまつり候よう仰せ渡さる。また、この義はかねて貴僧より願い出あることに候へども、奉行手切にてあい済みがたき義に候ところ、偏に御威光にて仰せ出され候。さぞ、本望にぞんずべし」
と、御内寄合席の3方すなわち松平対馬守殿、土井伊豫守殿、牧野因幡守殿が名々に祐海に御懇意の挨拶があり、祐海は3方に篤く御礼を申し述べました。次に、松平対馬守殿は弁弘和尚へ、右祐天寺祐海へ申し渡した趣を、増上寺住職白随大僧正へ申し上げるようにと仰せ渡しました。

この直達をたまわった祐海は、松平対馬守殿の役宅から退がると、それより御老中戸田山城守殿、水野和泉守殿、井上河内守殿、若年寄の大久保佐渡守殿、大久保長門守殿、石川近江守殿へそれぞれ御礼回りし、その次に増上寺住職である白随大僧正へ、祐天寺善久院を祐天寺と改唱する許可が今日、月光院さまの御願いによって公方さま(吉宗公)から下され、その旨が寺社御奉行を通じて祐海へ仰せ渡されたことを申し上げ、祐天寺に帰りました。

祐海は住持部屋に入るとすぐに、今日、寺号を祐天寺と改唱する御免しが、月光院さまの御願いによって公方さまから寺社御奉行を通じて下されたことへの御礼の手紙を、まずもって月光院さまに差し上げました。すると即日、月光院さま御附の御老女である六条さま、海津さま、園田さま3方の名で、祐海あてに次のような返書がありました。

「返すがえすこのたびのこと、御前の御世話さま遊ばされ候とおり、祐天寺と寺号を改唱仰せ渡され候御こと、上にてもいかほどか御満足にござりましょう。私どももかずかずめでたくぞんじまいらせ候。かようにありがたく思召候段、よろしく御礼の段申し上げまいらせ候。いく万々年もお寺繁昌のこと、顕誉さまにもさぞ御本望に思召候わんと、こなたにてもそれのみ申し暮し悦びまいらせ候。
めでたくかしく。
別して御文のこと、6日に松平対馬守殿にて3人の奉行衆御内寄合にて仰せ渡しあり。祐天寺の寺号、前方は祐天寺善久院と連続付け置き称呼の義御免しのところ、このたび、月光院さま思召について、祐天寺善久院あい改め祐天寺と唱え候ようにと仰せ渡しあい済み候。3人の衆挨拶にて、このことかねてぞんじ候ことながら、奉行所にては済み申さぬことに候所、御威光にて仰せ出され、さぞ、本望にぞんずべしと、名々の御挨拶あり。いずれもことのほか悦ばせられ候ようす、かようなるありがたさ、筆紙にも申し上げ尽しがたく候よし、御尤にござ候。御差図にてすぐに御老中、若年寄衆へ残らず御礼に御出のよし、増上寺役者弁弘へも同じく仰せ渡しござ候て、増上寺住職へも御届けなされ、いずれも御威光ゆへ、万事首尾よくござ候て、かずかずありがたく思召候よし。くわしきお文のよう、すぐに申し上げ候へば、御前にてもかずかず御満足の御こと。いく久しく御寺繁昌の御ことと悦び入りまいらせ候。このことよく心得て御申せとの御ことにござ候。
めでたくかしく」

祐海は享保4年(1719)正月12日、開山祐天大僧正の影像を造立のとき「もし明顕山祐天寺と号することを得ざれば、必ず往生を遂げず云云」という、誓願の詞を認めた書状をその御腹内に納めていました。今ここに祐天寺と寺号の改唱が成就したことから、「己の往生も疑うところこれなし」と思いました。

享保8年(1723)正月13日、松平対馬守殿から祐海へ呼状が届きました。即刻、祐海がその役宅へ赴くと、役人吉田重兵衛が取次に出て、新地方御奉行の伊藤伝十郎殿への封書の御印状を祐海に渡しました。その御印状には次の文言が記されていました。

「善久院こと今よりあい改め、祐天寺と唱え候よう、山城守殿仰せ渡され候、こなた帳面あい改め候間、御心得としてかくのごとく候」
同日、祐海はこの御印状を新地方御奉行所へ納めました。
同21日、新地方御奉行所の役人から祐天寺の納所方へ「明日、罷り出で候ように」との手紙が来ました。

同22日、納所の僧が新地方御奉行の伊藤伝十郎殿の役宅まで罷り越すと、去る13日に祐海が同奉行伊藤伝十郎殿に納めた御印状の返かんが、その僧に渡されました。即日、祐海は納所の僧から受け取ったその返かん、寺社御奉行の松平対馬守殿の役宅へ持参して、役人癸生川平兵衛へ渡すと「右印状の文言を写し取るように」と申されたので、祐海はその場ですぐに写し取りました。その書面は新地方御奉行の伊藤伝十郎殿、神保源五左衛門殿、大久保弥三郎殿3方から、寺社御奉行の松平対馬守殿へあてた返かんで、文面は次のようでした。

「右善久院寺号、祐天寺と唱え候得ども、御役所にては院号ばかり唱え、御帳面なども善久院のはずにござ候ところ、自今は祐天寺とあい唱え、御帳面なども右の寺号を記し差し置かるべく旨、山城守殿仰せ渡され候について、御帳面御直しなされ候旨仰せ下され、その意を得たてまつり候。 以上」

祐天ファミリー42号(H15-6-20)掲載

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