明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート32

祐天寺精史(二十七)

吉宗公、碑文谷筋へ御成

 祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

寛保2年(1742)10月20日、近々に公方さま(吉宗公)が碑文谷筋の御鷹場へ御成になるという御沙汰が祐天寺住職である祐海のもとにありました。この日、小普請方の曲渕越前守殿組の役人水野三右衛門、手代の嶋村平蔵、下役大工の大野善四郎、肝煎の源助ほか大工人足数人が祐天寺に入来し、公方さまの御馬立などを取り立てました。

同月26日、公方さまの御成が翌27日に決まったとのことで、小普請方ほかの諸役人が祐天寺に来られ、夜中までかかって、御腰懸や御膳所の仕切りなどを設置しました。

同日七半時、寺社御奉行の堀田相模守殿より使者井沢定右衛門をもって「明日、御成について御膳所を仰せ付けられ候ゆえ、火の元など諸事につき念を入れるよう」との仰せ渡しがありました。また同日、祐海が竹姫さまこと芝御守殿へ「明27日、御成の儀」を申し上げたところ、翌27日の早朝に竹姫さまから蒸籠3組、御檜重1組が文を添えて祐天寺に届けられました。

27日は晴天でした。公方さまは碑文谷筋の御鷹場へ成らせられる前に、城から渋谷の金王通りの表門まで馬で来られ、そこから朝五時前に御乗輿され祐天寺へ入御されました。祐海は裏門内の御成門の外でただ公方さまの御姿を拝しただけでその場に控えていると、公方さまが「住持出い。居るか」と祐海に御声をかけられ、しばし御成門の庭に設けた御腰懸で御休息され、そののち碑文谷筋の御鷹場へ出御なさいました。
九半時頃、公方さまは碑文谷筋の御鷹場から祐天寺へ還御されました。そして御歩行で表門を入られて境内に設営した仕切り内の御腰懸で御小休をなされ、八半時頃に城へ帰御の節、祐海が表門まで御見送り申し上げました。
そのとき、公方さまは祐海へ「天気よく、久しうて」と御上意がありました。寺僧が御側衆の渋谷和泉守殿へ「時の鐘をいかが撞き仕るべきや」と訊ねると、「格別の時の鐘に候。苦しからず」と仰せ渡されたので、平常どおりに時の鐘を撞きました。

祐天寺から公方さまへの献上物は、長さ1尺の大根を15本と牛蒡150本で、いずれも青縄を用いて結び、それを藁包にして横3尺に竪2尺の白木台にのせて差し上げました。

今日の御成の御供は若年寄衆の板倉佐渡守殿、御側衆の渋谷和泉守殿、松平肥前守殿、御小納戸の土岐大学殿、中嶋大蔵殿、関権六殿、御扈従の能勢河内守殿、御鷹匠の戸田五助殿、御目付の青山天斉殿、神尾市左衛門殿、御徒頭の青木惣兵衛殿、松平助之丞殿、岡部五郎兵衛殿、橋本大炊頭殿、北山宮内少輔殿、大番組と表向の御小性組の頭衆、中奥の御小性衆、御医師の望月三栄老、丸山貞安老、そのほか布衣以上の衆中などでした。この方々への食事は祐天寺で木具膳つまり足付きの折敷を50膳、布衣以下の人々へは足付きの黒膳を150人分そろえました。ただし若年寄衆と御側衆への木具膳には2汁5菜、これ以外の木具膳には5菜、黒膳には3菜で、どの膳にも酒とつまみを付けました。

竹姫さまから下された御菓子は、三方3台に積み重ねて奥向の御供方へ寺僧に持たせて出しました。同じく竹姫さまから拝領の檜重1組は外囲を付けたまま若年寄衆へ「芝御守殿より」と申し伝えて差し出したところ、若年寄衆は「芝御守殿よりの檜重は格別ゆえ、公方さまへ」と仰せられたので、即刻、寺僧が御側衆の渋谷和泉守殿へその旨を申し上げて檜重を御渡ししました。

しばらく過ぎて、渋谷和泉守殿が祐海を呼び出し、次のような書付を渡しました。
「芝御守殿より御組重の儀、板倉佐渡守が土岐大学頭をもって公方さまへ差し上げ候ところ、御供方である奥向の者どもが公方さまよりめいめいに組重の料理を頂戴し、御供方ははなはだ御きげんに候」
この日の朝五時、公方さまが祐天寺に御小休されたので、若年寄衆、御小納戸衆、御小性衆へ吸物と飯を木具膳で20食ほど出しました。御鳥見衆頭の江口文左衛門殿、渡部九十郎殿、近藤彦兵衛殿、黒田甚九郎殿、深谷七左衛門殿、津田吉三郎殿、そのほか組下の衆30人ほどにも支度をそれぞれ出しました。

寺内の掃除などは城からの出方の役人ならびに名主の佐五右衛門が人足を連れて行いました。盛砂と手桶は祐天寺が用意しました。煎茶と茶碗は代官の伊奈半左衛門殿から役人が祐天寺に来て、村人足を使って準備しました。

祐海は竹姫さまへ「御成が首尾よく済ませられ候こと」を、使僧をもってさっそく御老女のお津連さままで伝えました。同日、増上寺役所へも使僧を遣わし、御成が滞りなく相い済んだ旨を届けました。

祐海は28日、駕籠に乗り昨日の御礼のため、若年寄の板倉佐渡守殿、松平肥前守殿、渋谷和泉守殿、寺社御奉行御月番の堀田相模守殿、それに増上寺役所へ回駕しました。その折、次のような文面の手札を持参しました。
「昨27日、公方さまが碑文谷筋へ御成について、御膳所祐天寺へ両度も御目見えしかも御上意を蒙り奉り、ありがたき仕合わせに存じ奉り候。右御礼として参上仕り候」

同日、祐海は御本丸の御老女方へ昨日の御礼文を差し上げました。
暮六時、寺社御奉行御月番の堀田相模守殿の役人から祐海へ、次の呼状が来ました。
「達せらる儀候あいだ、明29日五時前、相模守宅へ相い越さるべく候。已上、10月28日」

29日、祐海が堀田相模守殿へ参上すると、役人梅村市兵衛が出会い、しばらく過ぎて祐海が評議席へ召し出され、堀田相模守殿からじきじきに「一昨日、公方さま祐天寺へ御立寄についてこれを下さる」と仰せられたので、祐海は御付台にのせた銀子5枚を拝領してうしろに引き下がると、堀田相模守殿は「右、受取書を差し出すように」と申され、祐海は紙と筆を拝借して受取書を認め、署名と書判を入れてそれを堀田相模守殿へ差し出しました。

祐海は堀田相模守殿の役宅を下がってのち、同じく寺社御奉行の本多紀伊守殿、大岡越前守殿、山名因幡守殿、若年寄衆の板倉佐渡守殿、御側衆の松平肥前守殿、渋谷和泉守殿、さらに増上寺役所へ銀子5枚を拝領したことを届け出ました。碑文谷筋の御鷹場の御鳥見衆へは、公方さま御成に際してはなにかと御世話をいただいた挨拶を、使僧を遣わし申し上げました。

祐天ファミリー45号(H16-2-15)掲載

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