明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート33

祐天寺精史(二十七)

天英院さま御仏殿などを造営(その1)

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

 延享元年(1744)12月4日、祐海は自作の絵図に朱引きしたとおりに、すでに先年拝領して境内の小屋に収めている天英院さま御座の間の材木を使って、天英院さまの御仏殿はじめ祐天寺の書院などを作事するため、その証明となる添簡の発行を増上寺役所へ願い出ました。
すると役者中は「天英院さま御座の間の御材木につきての御掛りは、寺社御奉行の大岡越前守殿に候えば、越前守殿にひとまず御届け申し上げ候てのち、当御月番の寺社司松平右近将監殿へ罷り出でらるべく候」と指し図がありました。
即日、祐海は越前守殿の役宅へ参り、役人酒井源太へ出会い「先年、御当方さま御懸かりにて拝領つかまつり候二の丸御座の間の御材木をもって、このたび、天英院さまの御仏殿はじめ書院など作事つかまつりたく存じ奉り候えば、これによりて、右願書を御当方係りにて御取り上げ下さるべくや否や」と伺えば、しばらくあって越前守殿は「普請の儀は格別のこと、当御月番の寺社司松平右近将監殿へ、とくと申し出でられ候ように」と酒井源太をとおして答えられました。
祐海はすぐに右近将監殿の役宅へ向かい、役人山口佐太夫に面会してさっそく願書と絵図を差し出すと、山口佐太夫が「12日に再度この役宅へ伺候するように」と祐海に口達しました。

同月5日、右近将監殿から祐海へ「昨日、相い願い候作事の件、屋根は瓦葺きに候や板葺きに候や」との尋ねがあり、屋根は萱葺きにする旨を言上しました。
7日、右近将監殿から祐海へ「明朝のうちに相い越され候よう」と呼び状が届きました。
8日、祐海が右近将監殿の役宅へ参上したところ、役人山口佐太夫が出会い「このあいだ願われ候作事の儀、願いのとおり差し許され候。御膳所にてこれあり候旨、目立ち申さざるよう」との忠言がありました。
祐海は右近将監殿の役宅を下がると越前守殿へ罷り越し、作事の許可が成ったことを申し上げ、増上寺へもその旨を届け出ました。
21日、新地御月番の小笠原十右衛門殿へ、天英院さまの御仏殿はじめ書院の作事の許可が、寺社司当御月番の松平右近将監殿から下った文書を届け出ました。

同2年正月21日、祐海は天英院さま御仏殿の作事に用いる材木を大工に命じて小屋から取り出させ、自らその数量を点検しました。
2月6日暁、天英院さま御座の間118坪分の材木をもって、御仏殿ならびに書院などの普請造作を開始しました。この日は吉辰につき釿初めとして、棟梁は目黒の佐倉木五郎兵衛、肝煎は麹町の次郎兵衛と三十軒堀の八兵衛が祐天寺に来てその規式を行いました。その折、祐天寺の僧衆は総出で四奉請、護念経、念仏回向を勤め、規式のあと大工や木挽きの人足らに祝儀を遣わしました。この日の食事は五菜に酒と肴を出し、供え物は御供えが3飾り神酒が3対、洗米と赤飯をそろえました。
27日、御本丸から代参として御老女の高瀬さまが祐天寺に来られ、天英院さまの御仏前へ白銀5枚を供えられたほかに、このたび御仏殿の作事についての諸入用の手当てと、天英院さまの遺り金のうち300両が御老女秀小路さまの計らいにて下されたと、使いの高見さまが持参して祐海へ下さいました。もっともこの金子は内々のことなので、吹聴は無用の由との仰せでした。

3月19日、これまでの玄関を引き出して地形に取りかかりました。
25日、内玄関ならびに書院の廊下25坪を取り崩して地固めをしました。
4月11日、田安御殿から代参の梅沢さまが来られ、このたびの普請について中将(宗武卿)さまが金50両、御廉中さま(宝蓮院さま)は30両を寄附され、一橋中将さま(宗伊卿)が30両をそれぞれ寄進されかつ、梅沢さまの世話にて御本丸と西の丸の御年寄さまはじめ一橋と田安の両御殿の女中さま方より、都合86両3歩の寄附がありました。
12日は吉日について、天英院さま御仏殿の柱立初めの規式を執り行いました。肝煎りの次郎兵衛が屋根の上に弓矢を飾り、つぎに神酒と洗米と御供え物などを供養すると、棟梁の五郎兵衛が裃を身に着けて祈願しました。そのとき、小雨がさらさらと降ったかと思うと直ぐに止みました。
「この雨は、永代火災これなき祥瑞」と誰もが感嘆しました。祐天寺の僧衆は四奉請、四誓偈、念仏回向を唱えて規式は滞りなくすみました。この規式に出仕した諸職人へ飯と酒を出しました。
14日、天英院さま御仏殿の上棟の規式が執り行われました。祐海をはじめ弟子僧らが御仏殿の屋根の上に登り、規式のために設置をした式台に並んで立つと、四奉請、阿弥陀経、念仏回向を修し、棟梁の五郎兵衛、肝煎の次郎兵衛と八兵衛が麻の裃姿で上棟の規式を差配して、そののち茶の間において祐海が諸職人へ十念を授けました。饗応は正味三菜に、酒と肴でした。

祝儀は祐天寺から金500疋を棟梁の五郎兵衛へ、300疋を肝煎の次郎兵衛へ、200疋を同じく肝煎りの八郎兵衛へ、500疋を総大工へ、銭300文を鳶頭の八兵衛へ、20疋を同鳶頭の次郎兵衛へ、200貫文を鳶の者13人へ遣わしました。
上棟の規式での飾り物は、大供えを3つ、中供えを6つ、神酒は5升入の樽を2つ、昆布を3抱え、懸け銭を3貫文、蒔き銭を333文、蒔き餅を333個、白米を5升、弓弦の白木綿を2反、浅黄の絹を3反、扇子を9本、鏡を3面、そして洗米をいずれも白木の三方にのせて供えました。
この上棟の規式のあいだ、いささかの雨もありませんでしたが、規式後には小雨が降り出し、しだいに強くなりました。
上棟の祝い物として、御本丸と西の丸の御老女衆、田安御殿、一橋御殿、芝御守殿、瑞応院さま、吹上御殿へそれぞれ赤飯の御供え一重づつを献上しました。そのほか好身の衆中および近所村合などへも赤飯を配りました。

祐天ファミリー46号(H16-6-20)掲載

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