明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート35

祐天寺精史(二十九)

経蔵と明本蔵経(その1)

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

宝暦8年(1758)2月13日、経蔵の造立をすべく祐海は山下御門内の寺社御奉行御月番である、阿部伊豫守正右殿の役宅へ直参して、朱絵図を添えた願書を差し出すと、その許可が即時に下されました。経蔵の場所は本堂と阿弥陀堂の間で、大きさは2間半四方。正面に横7尺と奥4尺の向拝のある土蔵の建て物でした。

同年4月朔日、経蔵が上棟したことで、祐海は寺社御奉行御月番の阿部伊豫守正右殿へ、使僧を遣して経蔵の上棟の旨を届け出で、さらに新地御奉行所と御鳥見衆へもそのことを届け出ました。

経蔵造立の施主は信哲和尚です。その縁由は寛保2年(1742)2月朔日、増上寺山内の6代将軍文昭院殿家宣公の守廟を勤める、真乗院の初世別当億(憶)道和尚が遷化し、その遺物として真乗院から祐天寺へ、永代什物とするよう明本蔵経が納められていたのです。そこで信哲和尚は、この明本蔵経を収蔵する経蔵を新建したいと願ったのが初めでした。

億道和尚は祐天大僧正の旧来の随従者です。祐天大僧正が正徳元年(1711)11月27日、増上寺36世貫主として晋山すると、その翌年正月元日、代僧となり総本山知恩院に任官口宣を頂戴するため登山したことが、『知恩院史料集 古記録篇一』に見えています。また、祐天大僧正が同4年(1714)6月19日に増上寺を退隠したとき、麻布一本松の増上寺住職隠居所が修築されるまでの間、ひとまず、同月27日に増上寺の表門通りから新堀川沿いに土器町そして永井町へ出て、億道和尚が住する真乗院西門から、祐海ほか20余名の弟子を伴い引き移ったことが、増上寺の『方丈御入院并御隠居記録』に述べられています。

億道和尚が真乗院の初世別当となるに際しては、7代将軍有章院殿家継公の守廟(霊廟つまり墓所の守護)である瑞蓮院の初世別当が、増上寺37世貫主詮察大僧正の推挙で自らの法弟、鎌倉大仏の高徳院住職意詮に決定したように、億道和尚の場合もこれよりさき祐天大僧正が予め推挙したことで、同2年(1712)10月22日、億道和尚を文昭院殿家宣公の新霊廟を守護する寺院、すなわち真乗院の初世別当に補任させたことが、江戸城本丸表向の『日記』正徳2年10月22日の条に認められます。

億道和尚が真乗院の初世別当を幕府から仰せ渡された詳しい経緯が、増上寺の『有章院様御新葬記』に次のように書きとどめられています。「文章院様御別当真乗院の節は、(中略)方丈へ御奉行方御出で候砌、御直談願い候。
文章院様御新葬の節、正徳二年十月廿二日、大方丈に於て初夜勤行相い済み、則ち、大方丈弐の間へ大僧正、ならびに役者かつまた億道出席。御霊屋別当を仰せ付けらる旨、秋本但馬守殿仰せ渡され、寺社御奉行御両人も御出で成され、直々、真乗院と相い改め申され候」

右の方丈とは祐天大僧正の居室であり、御奉行方とは寺社御奉行の森川出羽守俊胤殿と安藤右京亮信友殿です。御直談とはおそらく祐天大僧正が、方丈の内随幹いわゆる方丈の間に勤仕して、祐天大僧正を補佐する随従者の筆頭、億道和尚を真っ先に別当に推挙せんと直談に及んだことを明示していましょう。大僧正とはいうまでもなく祐天大僧正であり、役者は増上寺の所化役者円龍和尚と利天和尚です。御霊屋は位牌を安置する仏殿です。秋本但馬守殿とは御老中秋本但馬守喬知(朝)殿、寺社御奉行御両人は既述のとおりです。文末の真乗院と相い改め申され候とは、正徳2年10月14日に家宣公が薨御され、同月22日、その御霊屋を守護する寺院の別当に、祐天大僧正の筆頭随従者である億道和尚が任命され、その寺院を真乗院と名付けたことを意味します。別当は御霊屋と霊廟を守護したのです。

この寺院は『三縁山志』巻三によると、同3年(1713)、御廟(御霊廟)の西のかた臨済宗金地院の続きの地に建立されたと記しています。この地は現在の東京タワーの辺域に当たります。その所在位置は同じく『三縁山志』巻一の「文化辛未御増池以前図」などから確認できます。文化辛未は文化8年(1811)です。

億道和尚は遷化の後、その全骨は祐天寺に埋骨され、現在、亀趺の台座に乗る墓塔の中央に、真乗院一世億道和尚の名が刻まれ、その左右に歴住の僧名を列ねた塔身を拝することができます。

このように、祐天大僧正と億道和尚は深い縁によって結ばれていました。それゆえに億道和尚はその報恩にと、おそらく明本蔵経を祐天寺に納めたのでしょう。

(次号へつづく)

 祐天ファミリー50号(H17-2-15)掲載

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