明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート36

祐天寺精史(三十)

経蔵と明本蔵経(その2)

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

祐天寺の明本蔵経は『黄檗版一切経』あるいは『鉄眼版大蔵経』などとも呼称されます。『黄檗版一切経』の原本は承応3年(1654)7月5日に来日した、明の福州(福建省)の隠元禅師がわが国にもたらしました。隠元禅師は後水尾法皇や4代将軍厳有院殿家継公の帰依を受け、寛文元年(1661)4月朔日、家継公から京都宇治の大和田村に寺地を給わり、同年5月吉日、黄檗山万福寺を開創しました。原本の『黄檗版一切経』はこの万福寺に所蔵されていました。同8年(1668)、隠元禅師の高弟木庵性瑫の弟子である鉄眼道光は、隠元禅師に一切経の開版を申し上げると、隠元禅師は喜悦して所蔵の『黄檗版一切経』を鉄眼道光に寄与しました。鉄眼道光は直ちに隠元禅師の許可を得て、黄檗山内に版木を貯え印刷を行う宝蔵院を建て、印房貝葉堂を京都の木屋町二条に置き、刻工を集めて同9年7月原本の『黄檗版一切経』を版下として、版木にその一文字一文字を印刻させました。鉄眼道光は広く有縁の喜捨を募り、饑饉に苦しむ民衆をその募財によって救済しつつ、大坂難波の瑞龍寺を経済的基盤として、天和元年(1681)、一切経の開版発願からおよそ13年目にして、わが日本で初めての『黄檗版一切経』六千九百五十六巻に上る、経版全部の刻了を成し遂げ、それを宝蔵院に貯蔵しました。祐天寺の明本経蔵はいつ印版されたか定かではありませんが、紛れもなくこの鉄眼道光が開版した版木から摺り出された『黄檗版一切経』です。『鉄眼版大蔵経』は開版者の鉄眼を取りかように名付けられます。

祐天寺の明本経蔵は目録二巻を含めて九百三十巻で、これを20函に分けて収蔵しています。内容は唐の玄奘三蔵訳『大般若経』六百巻に始まり、姚秦の鳩摩什三蔵訳『大智度論』百巻に至る九百二十八巻です。『黄檗版一切経』全巻の約7分の1巻余に過ぎませんが、目録二巻を含むこの明本蔵経九百三十巻は、原本の『黄檗版一切経』の誤刻や脱字をそのままに覆刻した蔵経であるため学術的には問題はあるものの、祐天寺にとっては開山祐天大僧正以来、今日へと連綿として承け継がれている、信仰上での歴史的価値の高い明本蔵経と言えます。

目録第一巻の表紙には、祐天寺10世祐麟の筆による「祐天寺什本 蔵司」の7文字があり、さらに見開きの力紙に「閉 塞 諸 悪 道 通 達 善 趣 門 功 祚 成 満 足 威 曜 朗 十 方」の20文字が記されています。この20文字は天保5年(1834)2月16日、祐麟が定めて明本蔵経を収める、20函の各函の蓋の中央に墨書した旨を述べています。この20文字は曹魏の康僧鎧訳『無量寿経』から採字したもので、現行の『浄土宗聖典』第一巻に「諸もろの悪道を閉塞して、善趣の門に通達せしめ、功祚、満足することを成じて、威曜十方に朗かなり」と訓読していきます。通釈は次のようです。

法蔵菩薩はわたしたちがこの世の悪業によって、次の世で地獄・餓鬼・畜生という三悪道に生まれるであろうその道を閉ざし塞ぎ、わたしたちがこの世で善業を積んで浄土に生まれるためのその門に通じ至らせるでありましょう。そうして、法蔵菩薩は阿弥陀仏と成って光明を放ち、その光明は十方三世に届いて、わたしたちはその光明に照らされ輝くでありましょう。

経蔵には「夜余」と称する坐像の阿弥陀如来が安置されていました。この阿弥陀如来は安阿弥つまり鎌倉初期の仏師快慶の作と伝えられ、江戸の道人である不角法眼が88歳のときに「夜余之弥陀如来縁起」を奉書したことが、『祐天寺史資料集』第一巻〔上〕に記されています。この阿弥陀如来の厨子は宝暦7年(1757)5月吉日に製作が始まり、経蔵上棟の同8年4月朔日にでき上がりました。

祐天寺の経蔵は大正12年(1923)9月1日、関東大震災により倒壊しました。しかし、祐海筆の扁額「経蔵」と明本蔵経は罹災を免れました。夜余の弥陀如来は探索中です。
経蔵新建に至るまでの祐天寺の願書と、増上寺から発行された添簡は次のような文面でした。

〔願書〕
拙寺ニ霊仏并一切経等所持仕候ニ
付、今般、本堂脇弥陀堂之間、弐
間半四方ニ四尺ニ七尺之向拝付土
蔵作建立仕、右之仏像経巻納置申
度、依之、朱絵図之通、作事仕度
奉願候、右、願之通御免許被成下
候ハゝ、難有可奉存候、已上、
宝暦八年   目黒
祐天寺印
寺社
御奉行所

〔添簡〕
目黒祐天寺所持仕候霊仏并一切経
等、差置候場所無御座候ニ付、朱
絵図之通作事仕度旨、委細書付を
以奉願候、御聞届宜被仰付可被下
候、已上、
増上寺役者
良源院印
二月十三日
密 厳印
阿部伊豫守様
御当番中

祐天ファミリー51号(H17-4-15)掲載

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