明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート37

祐天寺精史(三十一)

寺格願ならびに仰せ付けのこと(その1)

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

明和9年(1772)11月14日、祐天寺6世祐全は寺の格付である寺格を幕府から頂くため、次のような願書を寺社御奉行の土岐美濃守殿へ差し出しました。

拙寺御由緒の儀、
有徳院様を始め奉り
惇信院様も御同様の御厚き思し召しをもって、大僧正祐天遺跡の建立を成就つかまつり、余寺と混くせず、祐天法孫もて相続つかまつり来り候儀、偏に御威光ゆえと有り難く存じ奉り候、その上、
文昭院様
天英院様
月光院様の御位牌所に成し下され、御法事のたびごとに、
御菩提所の列に准じて、納経拝礼を仰せ付けられ、当寺は
表裏の両門へ下馬札まで御建て成し下され、重々、
御威光を蒙り奉り、冥加至極、有り難く仕合わせに存じ奉り候、
委細は別紙の御由緒書の通りに御座候、しかるところ、前来、寺格相い定まらず候ゆえ、寺院ども出会いの節、相互に座の並び、差文迷惑つかまつり候、殊に重き御供養も申し上げ奉る寺柄に相い成り、座席
混雑つかまつり罷り在り候儀、尊霊様方に対し奉り、却って恐れ多く存じ奉り候、これに依って、願い上げ奉り候は、従来、御内礼ならびに独礼と申し上げ奉り候、寺院の例に准ずること御座あるべき候間、
相当の寺格に仰せ付けられ下し置かれ候よう、恐れながら願い上げ奉り候、以上、
目黒
明和九年十一月  祐天寺印
寺社
御奉行所

右の願書には、増上寺から次の添簡を付けました。

目黒祐天寺儀、
御由緒に付いて寺格の儀、委細書付をもって願い奉り候、
この段、御聞き届け宜しく仰せ付けられ下さるべく候、以上、
増上寺役者
十一月十四日   花岳院印
潮天印
土岐美濃守様
御当番中

祐全はこの願書と添簡を土岐美濃守殿の役人加藤半左衛門へ出会い差し出すと、加藤半左衛門は「寺格願の内、御内札ならびに独礼のいずれを相い望まれ候や」と祐全に訊ねました。「恐れ多き儀に御座候えども、御内札に仰せ付けられ候はば、有り難き仕合わせに存じ奉り候」と祐全は申し上げました。すると加藤半左衛門は「いずれにせよ、今日は預り置き申し候。来る17日、伺いとして罷り出でられ候ように」と返答したので、祐全はその日は祐天寺に戻りました。この内礼や独礼とは江戸城における儀式の1つなのです。まず内礼とは、正月6日に江戸城本丸の白書院の縁頬(えんきょう。畳敷きの縁側)で、増上寺、伝通院、十八檀林各寺院、江戸の役寺3か寺(本誓寺、大養寺、祐天寺)ほかの住職が一列になり、将軍に一勢に年賀の挨拶をするものです。独礼は正月中に1寺院が単独で登城し、白書院の縁頬で他の武家に混じり、武家の後に年賀の挨拶をするのがその通例となっていました。祐天寺の内礼の許可は明和9年12月18日に幕府から下され、その儀は寺社御奉行である松平伊賀守殿の役宅において、同じく寺社御奉行の土屋能登守殿、牧野越中守殿、土岐美濃守殿の列席のもとで祐全に伝達されました。なお、江戸城での祐天寺の内礼の次第については、祐天寺10世祐麟が著した『明顕山年中行事清規』にその詳細が記されています。

さて、明和9年11月17日、祐全が土岐美濃守殿の役宅へ参上すると、
加藤半左衛門が出会い、書付を示して次のように申し渡しました。

祐天寺
右、明十八日五半時、内寄合へ罷り出でらるべく候、
十一月十七日

祐全はこの書付を加藤半左衛門から受納すると、増上寺へその旨を届け出で、帰寺しました。

同月18日五半時(午前9時頃)、祐全は土岐美濃守殿の内寄合へ罷り出ました。四時(午前10時)頃、祐全はその列席へ召し出されると、土岐美濃守殿が祐全の願書を読み上げてから、祐全に「追って、沙汰に及ぶべし」と仰せ渡しました。

祐全はその席から引き下がり、部屋を出て廊下に控えている加藤半左衛門に「この上いつ頃御伺い申し上ぐべきや」と低声に訊ねました。「いずれこの上は、最早、当奉行所へ伺うには及ばず」と加藤半左衛門は答えました。
祐全は土岐美濃守殿の役宅をあとにして、そのまま増上寺へ行き、帳場の林臥和尚にその旨を届け出ました。その折、林臥和尚は「去る15日、土岐美濃守殿から天徳寺、誓願寺、本誓寺、大養寺の4か寺について、その寺格取り立ての経緯の記録を寺社奉行所へ、急ぎ調べてその書付を差し出せとの上意があった」と祐全に告げました。

同月26日、祐全は祐天寺の役僧香観を土岐美濃守殿の役宅へ遣しました。すると加藤半左衛門が出会い「追って御沙汰これあるべし」との返答でした。

12月5日、祐全は祐天寺の平僧順冏を土岐美濃守殿のもとへ遣すと、加藤半左衛門が「追って御沙汰これあるべし」と同様の返答でした。

祐天ファミリー52号(H17-6-20)掲載

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