明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート39 第54号(H17-12-1)

祐海、祐全大和尚位を賜る

祐天寺精史(三十三) 祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

宝暦10年(1760)正月3日、祐天寺を起立した祐海が遷化し、縁山増上寺の第四十六世住職定月大僧正から祐海へ、直筆の大和尚位が贈られました。その許状の文面は次のようでした。

明顕山祐海和尚は、
祖蹟を起立したる功勲
広大なり。仍って
中興開山大和尚位を贈る。
増上寺大僧正
妙定月(花押)
朱印

祐海の功勲のひとつを示す著書に『愚蒙安心章』があります。この書は、念仏をすすめ万民普益の極楽往生を説く、文学的薫り高き、古歌を引用した名著です。例えば文中の「家業そのままにて念仏相続の事」では、

それぞれの家業そのままの念仏なれば、念仏しつつ業をなして、心を西方へ傾け、ぜひとも浄土に参らんと心をいたし、南無阿弥陀仏と唱えるとき、出る息入る息が往生極楽の思いなるゆえに、これ則ち万機を捨てぬ普益の行なり。かかるゆえにこそ、十人は十人、百人は百人ながら、往生を遂げるの行これに過ぎたるめでたき法あらんや。ああ、まことに勤めるに勇あり、頼むに力あり、誰かこの法にはずれんや」

と教え、「一心専念の安心をすすめる事」では、

出る息のいるをもまたぬ世の中に長閑に君はおもひぬるかな

一日一夜の出る息入る息を念仏の数とせよ。いかがして数とすとならば、
ぜひとも往生せんと心をいたし、時々唱うれば、出る息入る息が往生極楽の思いなるゆえに、行住座臥も念々作々も皆念仏となるなり。もし悪心さかんなるものは、日夜、八億四千の出入る息が悪念なるゆえに、皆これ三途(地獄・餓鬼・畜生)の業となるなり。しかあれば、我ら心を専ら阿弥陀一仏にかけ、此度かまえて往生せんと願い念仏すれば、入る息出る息が往生極楽の思いなるゆえに、行住座臥の四威儀の念々作々も、皆ことごとく念仏となりて、念々相続する事疑いなし」

と誡めている。

さて、祐天寺六世祐全にも大和尚位が贈られました。
享和元年(1801)2月某日、祐天寺八世祐応は増上寺役所へ、祐全が遷化後に大和尚位を賜わるよう、その内許を祐全が存命中に頂き、祐全にそのことを伝えるために、願書を差し出しました。文言は次の如きでした。

愚寺の先々代の住職である祐全は、その在住中において、大破せる諸堂に修造を加え、地蔵堂を新規に建立して開山本地堂と命名し、本尊を松本城下の光明院から遷座仕り候。この本尊は祐天大僧正が在世の砌り、松本城主の水野出羽守忠周侯が夢に感得せし祐天大僧正の本地身に御座候。そのうえ、公儀より格別の思し召しをもって内礼の寺格を賜り、かつ、惣門と裏門に下馬札を下し置かれ、多分なる御祠堂金を新たに頂戴仕り候。

また、祐全一代限りとして、金入り袈裟の着用をも御許容下さり、あり難き仕合わせに存じ奉り候。これ一重に祐天大僧正の御余光ゆえと、殊更あり難く存じ奉り候。
然るところ拙僧儀、去年寛政11年(1799)に、隠居せし祐全と師弟の契約を仕り、法類どもより祐天寺へ住職を願いしに、則ち住持職を仰せ付けられ、偏に祐天大僧正の徳恩の至りと、重々あり難く存じ奉り候。
右、師弟の契約を仕り候をもって、不肖それがし拙僧が、此度、祐天寺八世住職の仰せを蒙り候儀に御座候えば、
何卒、師たる右祐全が命終の後は、大和尚位を御免許なし下され候よう、御願い申しあげたく存じ奉り候。

もっとも、右の儀を御願い申しあげ候段、恐れ入り存じ候えども、祐全が在命のうちに大和尚位の御内許を伝え申したく、御願い申しあげ奉り候。拙僧この御内許の志願に付きては、いささかも余儀なく候えば、この段、宜しく御願い申しあげ候間、幾重にも格別の思し召しをもって、御免許を成し下され候よう、
御願い奉り候。以上。

同年2月15日、増上寺役所から祐天寺住職の祐応へ呼状が届きました。祐応が即刻参上すると、所化役者2人、寺家役者2人の計4役者の列席に召し出され、祐全への大和尚位の免許の仰せ渡しが、次のようにありました。

隠居祐全儀、その寺、格別の規模もこれあるに付いて、
今般、思し召しをもって、大和尚位を御免許遊ばされ候。この段、当人へ申し達すべく候。以上。

祐応はこの仰せ渡しを拝受し、増上寺の第五十四世住職念海大僧正の直筆に成る、次の免許状を賜りました。

前祐天寺祐全和尚は、
内には寺門を光かし、
外には貴賤を化すること四十年、
一日としてここに真の老なきが如し。
因って、その功あることを称え、授くるに大和尚号をもってす。
享和元年二月十五日
増上寺大僧正念海(花押)
朱印

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