明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート40

祐天寺精史(三十四)

月光院さま御持念仏祐天寺へ御納め

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

享保15年(1730)6月18日、月光院さまお附の御年寄である園田さまから祐天寺へ、恵心僧都の作になる厨子入りの阿弥陀如来立像1尺5寸7分を、奉納したいとの手紙が届きました。
この阿弥陀如来は正徳3年(1713)、祐天大僧正が増上寺36世住職として在任中、月光院さまが自らの持念仏にとの懇請により差し上げた尊像でしたが、このたび、祐天寺の仏間の本尊に納めたいとの思し召しの文面でした。月光院さまが年来にわたり拝された尊像ゆえ、ことのほか名残り多いのですが、こののちのこともあるので、納め置くのがふさわしいとの配慮でした。

10月6日、吹上御殿の月光院さまから、御代参としてお附の御年寄海津さまが祐天寺へ来られ、かねて園田さまが手紙で伝えられた、月光院さまの持念仏、阿弥陀如来立像をこの日、祐天寺に奉持されました。海津さまはこの如来のおもり役として入来したのです。

海津さまは住持祐海に会うと、「祐天寺の什宝の本尊になされ、また、天下泰平の御祈願仏に、かつまた、七代将軍有章院さまの御追善の御供養に」と、月光院さまの言葉を祐海に伝えられました。祐海は尊像を拝受すると、「永代、祐天寺の内仏本尊に安置したてまつり候。月光院さま仰せのとおり、御供養御回願とも申し上げ候。この尊像はもともと祐海が持念仏にてございましたが、ゆえあって尊師祐天大僧正に譲りたてまつりしに、そののち、開山祐天大僧正より月光院さまへ進ぜられ候。なれど、図らずも今日、当寺へ御納めとのこと、祐海ふたたび拝念たてまつるは、偏に御縁仏とありがたく存じたてまつり候」と、海津さまに答えました。
同月7日、吹上御殿の月光院さまへ祐海は、昨日、海津さまが祐天寺へ代参された御礼ならびに尊像入来の御礼の手紙を差し上げました。その文面は次のようでした。

返すがえす、本尊御拝遊ばしたく思し召し候せつは、御迎え申し候わんとの御事仰せられ、かしこまりまいらせ候。
いつ何時いても、さようござ候と、ありがたく存じたてまつりまいらせ候。
めでたくかしく別して申し上げまいらせ候。しかれば、かねがね仰せを蒙りまいらせ候ところ、御所持の阿弥陀如来尊像1躰を御奉納遊ばし、仰せられ候とおり誠に厚き思し召しのほど、感じたてまつり候て、ありがたく奉納つかまつり候。思し召しのとおり、永く祐天寺の方丈仏に安置つかまつり候て、尊敬申し上げ候ように記録つかまつり置き、万代へ相い伝え申すべく候と、ありがたく存じたてまつり候。さよう候えば、
御由緒厚き御本尊ゆえ、末代に至りまいらせ候ほど、諸人貴み寺の光暉、いよいよありがたき御事と、悦びたてまつる御事にござ候。この段も御序でに仰せ上げ下さるべく候。
御信心御退転なく御増進の御事ゆえ、ひとかたならずありがたく、まずまず御仏道御精進遊ばし、万々年ののち、上品へならせられ候ようにと、念じ祝ひたてまつり候。
六条さま
海津さま 祐天寺
園田さま

このたびの阿弥陀如来が祐天寺へ入来するのに伴い、月光院さまから次の仏具と荘厳具が納められました。

一御紋附滅金五具足 1通り
一御紋附滅金御茶湯器 1通り
一御紋附御供物御三方 5対
一御紋附黒塗御膳具 1通り
一御紋附金襴御戸帳 1通り
一御紋附金襴御打鋪 2通り

ほかに御初穂白銀10枚を添えて祐天寺に納められました。
そののち延享2年(1748)、内仏殿が出来したので、この殿へ阿弥陀如来を安置申し上げました。内仏殿の作事料として、金50両を祐天寺に下さいました。さらに、御紋附唐銅御燈籠を1対、御紋附御水引と御打鋪をそれぞれ1通りづつ寄進下さいました。
月光院さま御在世中は、正月と5月と9月には、この本尊前へ大奥から祐天寺へ、御代参の御年寄たちが来られ、五節句には銀3枚とそのほかの供物が供養されました。

宝暦2年(1752)10月、月光院さまお附の御用人である握美伊勢守殿が、若年寄の松平宮内少輔殿の書付を祐天寺へ持参されました。その書付の文言は次のようでした。

祐天寺
月光院さま御所持の阿弥陀如来を遣わし置かれ候に付いて、 銀30枚を下され候間、その趣き取り計らい達せらるべく候。

右の書付を握美伊勢守殿は祐海に渡され、銀30枚を御附台にのせて差し出しました。
祐海はそれを戴くと、「永代、怠惰なく御供養つかまつり、御祈願ならびに尊霊さまの御供養をも滞ることなく申し上げたてまつり候」と、丁重に答えました。

祐天ファミリー55号(H18-2-15)掲載

TOP