明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート41

祐天寺精史(三十五)

御府内町々など巡行托鉢願いのこと

祐天寺研究室 伊藤丈

文化元年(1804)6月17日、祐天寺9世住職である祐東は、前もって増上寺の所化役者祐海和尚へ内談して認めた、常念仏を相続するための、目黒の町々と近在での巡行托鉢について、次のような願書を寺社御奉行御月番の水野出羽守殿へ差し出しました。

拙寺の常念仏の儀は、天下安全かつ仏法興隆のため、享保3年(1716)7月、開山大僧正祐天が開白して以来、相続つかまつり来り候。しかるところ、前々よりの資金もござなくしかも檀家もなければ、自然と常念仏も廃絶つかまつるに至ること顕らかなる儀にござ候。拙寺の先々住また先住ともこのことを深く痛心つかまつり候えども、いずれも病身のため住職の期間も短く、僅か5カ年の内に3代も交代つかまつり候。これにより、常念仏相続の志願もあい立ちがたく罷り過ぎ申し候。しかるところ、去る享和年中、拙僧住職つかまつり候以来、既に相続も成しがたき時節にあい及び、なおさら難渋至極につかまつり候。開山の素意を途絶して常念仏をあい怠り候ては、何とも嘆かわしく存じ奉り、これによって相続助力の募財ならびに諸人結縁のため、目黒の町々加えて近在を巡行托鉢つかまつりたく存じ奉り候。もっとも、右の托鉢による月々の布施を積み立て候わば、常念仏は怠惰なく、永世、相続の基手ともあい成り、ありがたきことと存じ奉り候。何卒、格別の御憐愍をもって、願いの通り托鉢のこと、御聞き届け成し下され候よう、願い奉り候。以上。
文化元年6月   目黒祐天寺
寺社
御奉行所

右の願書は増上寺の所化役者の添簡を付して、祐東が寺社御奉行御月番の水野出羽守殿へ届け出ました。

同年7月5日、明6日に堀田豊前守殿役宅の内寄合席へ罷り出るようとの、呼び出しの書状がありました。

当日、祐東が参上すると、その内寄合席へ祐東は召し出され、「巡行托鉢の儀は、出家の持ち前たるゆえ、勝手次第に致すべく、願書を差し戻す」と、列席の水野出羽守殿が祐東へ仰せ渡しました。

文政13年(1830)正月28日、寺社御奉行御月番の松平伊豆守殿へ、祐天寺10世住職である祐麟が常念仏を相続するため、次のような文面で、巡行托鉢の願書を差し出しました。

拙寺の常念仏の儀は、享保3年7月、開山祐天大僧正が天下安全かつ衆生済度のため、これを発願し開白され、起立祐海が祐天大僧正の遺跡を公方さま御免しの下、建立致され常念仏相続つかまつり来り候。
しかしながら、前々より常念仏の資金施財もこざなく、殊に拙寺は檀家これなき儀ゆえ、自然と常念仏も廃絶つかまつるべくやと、代々の住職、心労つかまつり候。自力にては常念仏も及びがたく、既に先住の祐東代、文化元年6月、水野出羽守殿へ目黒の町々ならびに近在にての巡行托鉢の儀を願い奉り候。
しかれども、当住職は長々の病身にて、その志願も行き届き申さず、ようよう聊かづつの諸人よりの布施助力をもって、常念仏を修行相続つかまつり候までの儀にござ候。
しかる上は、拙僧儀、去る文化14年(1831)中、祐天寺へ住職拝命つかまつり候ところ、開山祐天大僧正よりあい勤め候ところの常念仏も、実に退転つかまつるべく程の姿にて、嘆かわしく存じ奉り候。かるがゆえに、常念仏相続かつ諸人結縁のため、御府内さらには目黒の町々並びに近在にて、如法の巡行托鉢つかまつりたく存じ奉り候。
右願いの通り、御免し成し下され候わば、諸人の布施の内よりおいおい積み立てつかまつり置き、永世、常念仏の資金にあい備えたく候。これ畢竟、開山祐天大僧正が発願されし常念仏を、永続すべき心願の儀にてござ候。
願いの通り御免し成し下され候わば、ありがたき仕合せに存じ奉り候。以上。
文政13年正月  目黒祐天寺
寺社
御奉行

右の願書を増上寺からの添簡を付して、祐麟が寺社御奉行御月番の松平伊豆守殿の役人穂積喜左衛門へ差し出しました。すると、穂積喜左衛門は祐麟へ、「来る2月5日、役僧をもって当寺社奉行へあい伺われ候よう」と口達しました。

2月5日、役僧祐忍を寺社御奉行へ伺わせると、役人穂積喜左衛門が出会い、「明6日、6半時、脇坂中務太輔殿役宅での内寄合席へ、祐麟がじきじき罷り出らるべし」

との文言を認めた書付を、祐忍に渡しました。

翌6日6半時、祐麟が脇坂中務太輔殿役宅での内寄合席へ罷り出ると、次のような書付をもって、列席の松平伊豆守が祐麟へ仰せ渡しました。

祐天寺
享保度、開山祐天遺跡の取り立てならびに常念仏修行の御免しが下され候ところ、檀家も資金もこれなく、常念仏の相続は難渋いたすに付いて、御府内さらに目黒の町々ならびに近在とも巡行托鉢つかまつりたき願いの趣、 右は出家の常ゆえ、別段、寺社奉行の免す筋にはこれなし。
よって、願書を差し戻す。

祐麟は願書を受け取り、それから松平伊豆守殿の役宅へ罷り出て、役人穂積喜左衛門へ出会い、脇坂中務太輔殿役宅での内寄合席にて、巡行托鉢の儀は、列席の松平伊豆守殿から「出家の常ゆえ、別段、寺社奉行が差し免す筋にはこれなし」との仰せ渡しがあった旨を申し伝え、祐麟は「以来、勝手次第に御府内さらに目黒の町々ならびに近在を巡行托鉢つかまつり候と申し上げました。すると、穂積喜左衛門は「もはや、常例の通りあい済む上は、勝手次第に巡行托鉢これあり苦しからず」と、祐麟に答えました。

祐天ファミリー56号(H18-4-15)掲載

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