明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート42

祐天寺精史(三十六)
法要釣鐘造立のこと

 祐天寺研究室 主任研究室 伊藤丈

寛保4年(1744)2月15日、南品川の鮫津に隠居の土州玉仙院さまが御年寄衆を通じて、法要(勤行)用の釣鐘を祐天寺に寄進したいという趣を、祐天寺に参詣した香運尼が住職祐海へ伝えました。

祐海は手紙をもってその旨を玉仙院さまに伺うと、玉仙院さまは「永代の御功徳にもなり候にござ候あいだ、御寄進したく候。御都合しだいに宜しきよう、仰せ付けられ下さるべし」と、返書を祐海に下さいました。

同月18日、寺社御月番である大岡越前守殿の役宅へ祐海は直参して、役人小林勘蔵へ出合い、次のような願書を差し出しました。

愚寺に有り来り候釣鐘は、先年、天英院さまの思し召しをもって、十二時鐘 を撞き候ようにと仰せ付けられ候。これによって、十二時のほかは撞き申さ ず候。このたび施主これあり。法事などの節に撞く釣鐘にて、指渡し2尺5 寸を新規に造立つかまつり候。これによって、本堂の東の方へ柱4本の堂を 建て、鐘を釣りたく願い奉り候。
右、朱絵図面の通り、相違ござなく候。御免許なし下され候わば、ありがた く存じ奉るべく候。已上。

右の願書を大岡越前守殿は披見すると祐海に会い、「釣鐘はもはや出来候や」と尋ねたので、祐海が「先日、神田の鋳物師粉川宗次へ申し付けましたれば、本日、その釣り場所を願い出た次第にござりまする」と答えました。すると大岡越前守殿は「承知」と言って、「早速、本日の内寄合席にてみなに申し伝うべし。のちほど、内寄合席へ罷り出らるべく、待ちおり候よう」と祐海に仰せられました。

祐海は半時あまり扣えておりますと、やがて内寄合席へ呼び出されました。大岡越前守殿が「その寺に先年より釣鐘これありや」と祐海に尋ねました。祐海が「先年、天英院さまの思し召しをもって、文昭院さまの御追福のために、釣鐘を御建立遊ばされ、重ねて昼夜十二時鐘を撞き候よう仰せ付けられ候。それ已後、十二時鐘のほかは、法要の節々も撞き申さざれば、寺務に差し支え罷り在り候。

しかるところ、このたび施主ござ候て、勤行の節にはこの鐘を撞き候ようにと、釣鐘の寄進がござ候。このたび、その釣り場所につき願い奉り候」と、大岡越前守殿に申し上げました。「なるほどもっともなること。願いの通り差し許す」と大岡越前守殿が答えられたので、祐海は御礼を申し上げてその席を下がり、役人小林勘蔵へ「各寺社御奉行4方へ御礼廻りをすべきかどうか」を尋ねました。すると小林勘蔵が「その通りしかるべし」と祐海に差し図がありました。すぐに祐海は4方の本多紀伊守殿、山名因幡守殿、松平相模守殿、そして大岡越前守殿の役宅へそれぞれ御礼廻りをして、次に増上寺へその旨を届け出ました。

翌19日、祐天寺役僧の納所忍貞が山崎屋三右衛門を同道して、鋳物師粉川宗次方へ行き、「万端、吟味を遂げて、来月10日までに釣鐘を出来するよう」と申し付けました。

22日、増上寺の役者念潮和尚が寺社御奉行の大岡越前守殿の役宅へ参上すると、大岡越前守殿が「祐天寺の諸堂ならびにこのたびの新規の釣鐘堂建立は、古境内に候や抱地に候や」と尋ねました。念潮和尚が「委細はこの朱絵図面に仕立ててござりまする」と朱絵図面を大岡越前守殿に差し出しました。

延享元年(1744)3月朔日、玉仙院さまから清野殿が祐天寺に参詣され、このたび寄進の釣鐘の入用金として、金60両とほかに供養料にと金3両を納められました。

同月6日、粉川宗次に申し付けていた釣鐘が出来したので、祐天寺から大八車を出して釣鐘を積み、人足12人掛りで九時、当山へ運び入れました。これによって祐海は、玉仙院さまへ来る9日、釣鐘成就の供養の法事を勤める由を、使いをもって申し上げました。

釣鐘の銘文は次のようでした。

東都大城の西南隅の法堀、明顕山善久院祐天寺の、勤行鐘の銘ならびに記
夫れ、経に曰く、若し鐘を打つ時、願わくは、一切の悪道諸苦ならびに皆な 停止せんことをと。
凡そ鐘に種々の異体異形異画と、大小応作の妙鐘あり。得通の者これを撃て ば、各声の三千に震い、みな現未の巨益を獲ること等し。当に知るべし、仏 門に揵稚して音を為すときは、物木鐘板の類みな鳴鐘に属すべし。是れ即ち 非情なり。故に悪心にして鐘を打てば、即ち勝利の巨益あることなし。撃つ 人の念力に因って益を得ること無量ならん。
又、鐘声の時衆に告げ、講堂に登りて来会衆に勧めて道念を発開せしめん。 然れば洪鐘を修りて、僧先ず平等度生の念に住し、仏名を唱えて法界に回さ ば、以て鐘を打つべし。必ず徒らに労して功を失することなかれ。是れ正し く維那の所作なり。僕をして縵りに之を撞つことなからしめよ。

3月9日、釣鐘の練り供養がありました。四時過ぎ、本堂より練り出して釣鐘堂へ至りました。練り供養の洒水は南蓮寺の祐門が勤め、讃が唱えられ四奉請、阿弥陀経ついで念仏廻向が済むと、それがし祐海がまず鐘を3つ撞き、次に施主玉仙院さまの御代参岩田殿が3つ撞き、次に粉川宗次が数回撞きました。ついで念仏廻向があり、釣鐘の供養会は退散となりました。

今日、玉仙院さまの屋敷から御年寄の吉尾殿とそのほか総御女中30人余が参詣され、その饗応として正味五菜の料理を出しました。粉川宗次へは盛物2重、赤飯2重、酒2樽3升入を贈り、ほかに祝儀金300疋を遣わしました。

祐天ファミリー57号(H18-6-20)掲載

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