明顕山 祐天寺

論説

祐天寺研究ノート43

祐天寺精史(三十七)

地蔵堂屋根 銅包みのこと

祐天寺研究室 主任研究員 伊藤丈

天明8年(1788)9月24日、祐天寺6世祐全は寺社御奉行である板倉左近将監殿へ、次のような願書を差し出しました。
拙寺の本堂と諸堂舎、大破つかまつり候について、去る安永9年(1780)2月 29日、寺社御奉行の太田備後守殿へ、本堂、御釣鐘堂、天英院様の御仏殿、 阿弥陀堂の右4か所の屋根を、銅瓦に葺き替えたき段願い奉り候ところ、願 いのとおり仰せ付けられ候。これによって天明4年(1784)、天英院様の御仏 殿の屋根を銅瓦に葺き替えつかまつり、御釣鐘堂の屋根は同5年に銅瓦に修 復つかまつり候。なおまた、今年6月より本堂の屋根に取り掛かり、出来つ かまつり候。

しかれども、阿弥陀堂屋根の儀はいまだ成就せざれども、信心の者どもより の寄進も多ければ、阿弥陀堂の屋根を銅瓦に修復つかまつり候とも、銅はあ い残り候ようすにござ候。

これによって、同5年11月、開山所持の地蔵菩薩像を安置奉る地蔵堂を建立 つかまつりたき段、寺社御奉行の堀田相模守殿へ願い奉り候ところ、翌6年 2月6日、同御奉行の松平伯耆守殿役宅の御内寄合御列席において、願いの とおり地蔵堂の作事を仰せ付けられ、出来いたし候。

これによって、右御仏殿、御釣鐘堂、本堂の屋根に用いてあい残り候銅をも って、地蔵堂の屋根に坪2合5夕ならびに書院の玄関屋根4坪の右2か所  を、銅包みにつかまつりたく存じ奉り候。

なにとぞ、願いのとおり仰せ付けられ下し置かれ候わば、ありがたき仕合わ せに存じ奉り候。以上。

右の願書には、増上寺役所からの
次の添簡がありました。

目黒祐天寺儀、地蔵堂の屋根12坪2合5夕ならびに書院玄関の屋根4坪の右 の2か所を、銅包みにつかまつりたき旨、委細書付をもって願い奉り候。こ の段、お聞き届け宜しく仰せ付けられ下さるべく候。以上

同年10月4日、板倉左近将監殿の役人吉田竹右衛門から祐全へ、次のような呼状が来ました。

達せらる儀これある間、明日中、あい越さるべく旨、左近将監申し付け候。 已上。

右の呼状を受け、5日に祐全が板 倉左近将監殿の役宅へ参上すると、役人吉田竹右衛門が出会い、祐全に書付を手渡しました。それには、次の文言が記されていました。

右、明6日五半時、寺社奉行の牧野備前守役宅の内寄合席へ罷り出でらるべ く候。

同6日、祐全が牧野備前守殿の御内寄合御列席へ罷り出ると、祐全が9月24日に板倉左近将監殿へ差し出した願書が、板倉左近将監殿によって読み上げられ、つづいて同人から祐全へ、「追って沙汰に及ぶ」と仰せ渡しがありました。

同11月9日、板倉左近将監殿の役人吉田竹右衛門から祐全へ、「10日に役宅へあい越さるべし」との呼状がありました。翌10日に役宅へ祐全が参上すると、役人吉田竹右衛門が出会い、次のような書付を手渡しました。

境内の絵図には諸堂舎をことごとくあい認め、これまでに銅瓦にて葺き替え し場所は、何堂々々と認めよ。もっとも、銅瓦の坪数の分もいちいち認め  て、さらにこのたび願いの地蔵堂と書院玄関の場所は、ここにて候と書き記 し、都合、何坪にあい成り候と認め候こと。
右は麁絵図にても苦しからず候。

祐全は、そこでさっそく絵図を仕立て、まず銅瓦の場所を朱絵図にしました。すなわち、本堂の6間に7間とその向拝の2間に3間で42坪、阿弥陀堂の3間に3間半とその向拝の9尺四方で12坪2合5夕、天英院様の御仏殿の2間に3間半で7坪、御釣鐘堂の2間四方で4坪、それにこのたびの地蔵堂屋根の12坪2合5夕と書院玄関の4坪、以上6か所の坪数は都合88坪と朱で絵図に認め、ただちに祐全は板倉左近将監殿の役宅へ、その絵図を差し出しました。

同9年正月16日、板倉左近将監殿から祐全へ、「明日中に役宅へ参上するよう」と呼状がありました。
祐全が17日に役宅へ罷り出ると、次の書付が役人吉田竹右衛門から祐全へ手渡されました。

明18日五時、牧野備前守の内寄合席へ出でらるべく候。以上。

右の御達しについて、祐全が18日に牧野備前守殿の役宅へ参上し、御内寄合御列席へ罷り出ると、板倉左近将監殿は祐全へ、「地蔵堂屋根の儀は願いのとおり差し許す。しかれども、書院玄関の屋根の儀は、あい成りがたし」と仰せ渡しました。

 祐天ファミリー58号(H18-9-1)掲載

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