明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(1)

『伽羅先代萩』伊達綱宗

祐天寺研究室 浅野祥子

 今回から「日本文化散歩道」と題して、連載を始めます。まず、「史実と歌舞伎・浄瑠璃」をテーマにして進めたいと思います。
江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。「平家物語の世界」、「太平記の世界」など、「世界」という言葉は歌舞伎の話の分野を表します。狂言(歌舞伎)作者が新作を創るとき、まず初めに定めるのが「世界」でした。 「世界」を決めたとき、登場人物はほぼ決まってき、その人物をどう動かしていくか、横糸をどのように仕組むかが作者の技量でした。史実と異なる筋を取り入れ、現実には存在しなかった人物を登場させるとき、そのほうが「事実」とは異なっても、人間の「真実」を浮き上がらせる場合もありました。史実をどう利用し、自分の独創をどう盛り込むか。伝統と創造……、狂言作者たちの力量の最も問われる部分です。
これから『本朝芝居虚実譚』と題し、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

最初に時代物の名作である『伽羅先代萩』を4回にわたって見ていきたいと思います。第1回目の今回は、『伽羅先代萩』のモデルとなったお家騒動である伊達騒動、その発端となった人物である、伊達綱宗を取り上げたいと思います。

『伽羅先代萩』1
現在の脚本は、過去に作られたいくつかの作品の寄せ集めです。安永6年(1778)初演の『伽羅先代萩』、翌7年(1778)江戸中村座で初演の『伊達競阿国戯場』、そのほか人形浄瑠璃の作品からも取り入れています。

今回取り上げる綱宗は、物語には足利頼兼という名で登場し、大藩の藩主でありながら遊里に通い、しまいに隠居に追い込まれる放埒な殿さまとして描かれます。そのような事情に付け込む輩が現れ、大お家騒動、「伊達騒動」が生まれるのです。

綱宗の人柄
綱宗は、仙台藩60万石の2代藩主、忠宗の6男として、寛永17年(1640)誕生しました。長男ではない綱宗が家督を相続した理由は、生母が京都の公家、櫛笥隆致の息女、貝姫(後西天皇の生母である逢春門院の妹)であったからだと言われます。
綱宗は、万治元年(1658)逝去した父忠宗の跡を継いで、19歳で3代目当主となりました。
忠宗の死に際し、70歳の家臣古内重広は殉死を選び、「心掛かりなことが2つある。1つは綱宗君の大酒、もう1つは兵部殿(伊達兵部宗勝、綱宗の伯父)の才知である」と言い遺したそうです。綱宗の大酒が、古老の目に危ぶまれるものとして写っていたことは注目されます。

万治3年(1660)6月、幕府の命で神田川の掘割の普請を受け持っていた綱宗は、毎日普請場に通っていました。その頃、伊達家の家臣茂庭周防は、「老中酒井忠清が不行跡を理由に綱宗を引退させ、伊達兵部らに領地を分け与えるという密計」があることを知ります。
伊達家家臣らは綱宗に知らせぬまま相談し、同年7月、一門伊達弾正宗敏以下伊達家中連署の綱宗隠居願いと、綱宗の2歳の長男亀千代の家督相続の願いを提出しました。同月18日、幕府より、酒食にふけっているという理由で綱宗に逼塞(門を閉じさせ、昼間の出入りを禁じ、謹慎反省させる刑)の命が下されました。

性剛気で酒を好んだ綱宗は、遊里にも通っていたようです。また、遊女高尾に深く馴染んだという俗説も伝えられていますが、この話には第4回で触れたいと思います。
綱宗は伽羅の下駄を履いて新吉原に通ったという伝説があります。これは伝説にすぎませんが、そのように言われるところのある性格の持ち主だったと言えるでしょう。

伽羅の下駄
綱宗が伽羅の下駄と結び付けられるには、理由がありました。
寛永元年(1624)長崎に異国船が着き、伽羅の大木がもたらされました。香木は本と末の2つに切られていましたが、当時風流を競っていた大名の細川忠興と伊達藩初代藩主伊達政宗との使者同士が価値の高い本の部分を手に入れようとして競争で値を付けました。その中で、忠興の使者興津弥五左衛門と、あまりの高値に末の部分で良しとしようと言う同役との間で争いが起こり、弥五左衛門が同役を討ち果たすという事件が起きたのです。切腹を覚悟した弥五左衛門ですが、忠興は寛大に赦しました。のちに忠興の死の折に、弥五左衛門は覚悟の殉死を遂げました。これは森?外の『興津弥五右衛門の遺書』という小説のもととなりました。

忠興の香木は「三斎」(のちに後水尾院により「白菊」と勅銘にて命名)、「初音」と名付けられ、また政宗の香木は「柴船」と名付けられ、これらは「三種名香」と呼ばれ、いずれも天下の名香と謳われました。
伊達家はその1つ「柴船」の所有者として有名であり、それに加えて綱宗が派手な行動をとったことが伽羅の下駄を履いて遊里に通ったという噂のもととなったのでしょう。
芝居の中で頼兼(綱宗)が登場するのは、大磯三浦屋で高尾太夫を身請けする場と、花水橋で刺客に襲われる場だけ(現在はほとんど後者だけ)ですが、そのとき頼兼(綱宗)は紫の着流しに帽子を付け、吉原に通うおっとりとした風体で登場します。駕籠に乗っているところを刺客に襲われた頼兼(綱宗)は、履いていた下駄を相手に蹴り付けます。大名の威信の前にフラフラと服従する刺客が、思わず頼兼(綱宗)の指図どおり拾ってくるのですが、そのとき下駄の匂いをかいで「良い匂い」という表情をし、観客の間にくすくすと笑いが漏れます。「大磯三浦屋の場」があれば、侠客浮世渡平が伽羅の下駄について諫言する場面があるのですが、それがないので少々わかりにくい場面です。

これは「この下駄は伽羅の下駄である、仙台伊達公は伽羅をお持ちである」という暗示でありまた、貴い香木を下駄にするなどということで、綱宗に奢った振る舞いがあったことを暗に示しているのです。そして、この伽羅の下駄の噂が、この狂言の外題『伽羅……』のもとともなったのです。
作者は、伊達公と言えば有名だった伽羅の逸話、その貴重な伽羅を下駄に使っていたという噂を盛り込むことで、頼兼(綱宗)のぜいたくさ、奔放なありさまを描き出しているのです。

<参考文献>
・『伊達騒動実録』(大槻文彦、名著出版)
・「伊達騒動」(北島正元、『新版御家騒動』、1970年、新人物往来社)
・「原田甲斐」(林亮勝、『日本人物史大系』3巻、1959年、朝倉書店)
・『二川随筆』(細川宗春、『日本随筆大成』二期五)
・「徳川美術館の香木について」(所三男ほか編、『金鯱叢書』、1976年、徳川黎明会)
・『時代狂言傑作集』4巻解説(河竹繁俊ほか編、1926年、春陽堂)

祐天ファミリー第35号(H14/2/15)掲載

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