明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(2)

『伽羅先代萩』政岡

祐天寺研究室 浅野祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『伽羅先代萩』2

頼兼が放埒で引退に追い込まれたのち、足利家を継いだのは幼い若君、鶴千代でした。

家臣仁木弾正は管領山名宗全と結んでお家乗っ取りをたくらみ、幼い鶴千代を暗殺しようと計画します。鶴千代の乳母政岡は、鶴千代と同い年のわが子千松を育てながら、鶴千代を悪者どもの魔の手から守るのに必死です。「鶴千代は病気で、男の姿をした者を嫌う」と言い立てて武士を近付けないのも、刀による暗殺を警戒してのことです。

また、毒殺を警戒し、調理場でこしらえた料理は食べさせず、政岡が手づから茶の湯の道具で焚いたご飯を握り飯にして御膳にあげています。しかし育ち盛りの子どものこと、ともすれば空腹を我慢できなくなりかける幼君を励ますために、わが子千松にも同じ粗末な食事を与えてお相伴させています。

ところがあるとき、山名宗全奥方栄御前が病気見舞いと称して見事な菓子を持ってやってきます。幼い鶴千代は思わず菓子に手を出しますが、そのとき飛び出して菓子を蹴散らかしたのが、言い含められていた千松でした。

仁木弾正の妹八汐は御殿勤めをしておりましたが、無礼を働いたとして、菓子を食べた途端に苦しみだした千松の喉に無惨にも懐剣を突き立てました。喉を抉られ、なぶり殺しにされる千松。わが子の死を目前に見ながら涙1つ浮かべず、若君を引き寄せて守る政岡の態度に、栄御前  はすっかり、政岡の本当の子は鶴千代で、幼いときにすり替えて育てていたのだと信じ込み、一味のしるしにと、悪計の連判状を渡して去っていきます。政岡は子を殺された悔しさと悲しみのうちにも、悪者を滅ぼす手掛かりを得たと喜び、千松の遺骸に向かい、そなたの死は、お家を安泰にする礎じゃと呼び掛けます。

これが、烈女と讃えられ、忠義の鑑とされた政岡の『伽羅先代萩』の中での姿です。

三沢初子

三沢初子は伊達綱村(幼名、亀千代丸)の実母で、政岡のモデルとされたと言われています。

初子は寛永16年(1639)、源経基から続く名家の末裔である権佐清長の娘として生まれました。しかし、父清長は、初子が生まれた頃は流浪の身でした。清長は、のち江戸に移り住みますが、やがて病没します。初子は13歳で父を失い、叔母の紀伊に養われることとなりました。紀伊は池田輝政の娘、振姫に仕えていましたが、振姫が伊達忠宗の室となったため、紀伊も初子もこれに従って伊達家に仕えることとなりました。初子が大変美しく、聡明であったため、藩主忠宗の目にとまり子息綱宗の側室になりました。万治2年(1659)3月、初子は亀千代丸(のちの仙台藩主綱村)を出産しました。21歳のときでした。しかし、夫綱宗は不行跡のため、翌3年(1660)隠居を余儀なくされます(前号参照)。その後の初子は夫とともに品川の邸に住み、さらに2子をあげました。ときどき上屋敷を訪れ、藩主となった亀千代の様子を見舞ったと伝えられます。

幼君毒殺未遂事件

歌舞伎『伽羅先代萩』の1つのやま場が前述した鶴千代毒殺未遂の場ですが、毒殺未遂事件は実際にあったという説があります。

寛文6年(1666)のこと、医師河野道圓に罪過があり、父子3人が刎首となりました。この事件はいろいろに取りざたされ、さまざまな話が伝わっています。近臣が亀千代の膳の毒味をして急死するという変事が起こり、人々が驚いて亀千代の後見人に急ぎ知らせたところ、後見人の1人である叔父伊達兵部は、その夜のうちに人を遣わして公の医師河野道圓を殺させた、という『家蔵記』の話もそのうちの1つです。

また『伊達四代記』には、伊達兵部が以前より恩を与えておいた医師河野道圓を招き、密かに亀千代毒殺を頼んだところ、道圓が驚いて辞退したので、兵部は「汝の忠心を試した戯れ言だ」とその場をごまかし、出した茶に毒を入れて道圓を殺害した、という話になっているそうです。

事件の真相はわかりませんが、そのような風聞を『先代萩』の芝居に取り入れていることは間違いないでしょう。

母の思い

劇中の政岡が鶴千代にしたように、毎日亀千代に付き添って守ることはできなくても、健やかに生い育って欲しいという初子の母性の願いは政岡と共通するものでした。

初子は5,000貫(1貫とは1文銭1,000枚と同じ価値で、大まかに言って1万円)を投じて赤栴檀(赤い栴檀。麝香のような上品な匂いがし、仏像の材料に多く用いられる)を買い求め、釈迦の尊像3体を彫らせました。そしてその1体を自らの髷のうちに納めて綱村(亀千代)の無事を祈り、騒動が収まったのち綱村に与えたのです。ほかの2体は次男と3男に渡して祀らせました。像の大きさは7分5厘(2.5センチメートルほど)。 いつも身に付けていられる小さな尊像に、初子は祈りを託したのでした。

政岡のような烈婦でなくとも、幼君を守り通した裏には、母や乳母たちの並々ならぬ苦心と祈りとがあったはずで、それを推察して造形された人物があの政岡であると言えるのではないでしょうか。

中目黒正覚寺初子像と五輪塔

初子は、学徳が高い中目黒正覚寺日献和尚に、深く帰依していたそうで、自らの居間の木材を正覚寺本堂再建の折に寄進もしているようです。

正覚寺には現在、初子の像が建っています。懐剣に手をかけて凛としたその姿は、「烈女の鑑」とされた政岡のイメージそのものであり、日本人にとって1つの理想像であった政岡を記念するにふさわしいものと言えましょう。また、初子がいかに深く政岡のモデルと信じられ、尊崇を受けてきたか、その証ともなっています。

正覚寺墓地には、初子供養の五輪塔も建っています。刻まれた法号は「淨眼院殿了嶽日厳大姉」。貞享3年(1686)2月4日卒去ののち建立されたもので、墓石は仙台にあります。

<参考文献>
・ 『伊達騒動実録』大槻文彦、名著出版、1970年(明治のものの再版)

祐天ファミリー36号(H14/4/15)掲載

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