明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(3)

『伽羅先代萩』仁木弾正

祐天寺研究室 浅野祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『伽羅先代萩』3

政岡がせっかく手に入れた悪者どもの密約書は、妖術で鼠に化けた仁木弾正に取り戻されてしまいました。鼠から人間の姿に戻り、にやっと笑って巻物を懐に入れ、悠々と花道を引っ込む仁木弾正の演技は、「雲の上を歩く心持ちで」演じるように、という口伝があるそうです。白塗りで、額に三日月型の赤い傷を見せ、鼠色の長上下の姿で進んでいく姿には、国崩しの大悪人たる威厳も必要とされます。

さて、いよいよ裁きの場。仁木に味方する管領山名宗全は一方的にどんどん裁きを進め、対する外記側の提出した証拠も火にくべてしまいます。もうこれまでかと思ったとき、もう1人の管領、細川が登場します。

仁木と山名の悪巧みを知る細川は、鋭い指摘であっと言う間に劣勢だった外記側を優位に立たせ、仁木を追い込みます。さらに亀千代を呪詛する密書の書き手が仁木であるということがわかり、遂に悪事が露見しました。仁木は肩衣をはねられ、土間に落とされます。士分を剥奪するという意味です。

いったん詰所に戻った仁木弾正は、次の場では髪を逆立て、刀を抜いて大荒れの形相で現れます。老いた外記左衛門にすでに1太刀浴びせており、続いて斬り付けようと追い掛けてきたのです。外記は扇子1本で必死に攻撃を避けています。遂に仁木が外記に馬乗りになり、とどめを刺そうとしたその瞬間、役人たちが駆け付け、仁木は逆に成敗されます。仁木の死骸は役人たちに高々と担ぎ上げられて退場します。悪人は滅び、亀千代を守り立てようとする外記側の勝利でした。

注:連載(1)で述べましたように、現在の脚本は、過去に作られたいくつかの作品の寄せ集めであり、人物の名は現行の脚本に従っています。

寛文事件まで

仁木弾正のモデルである原田甲斐宗輔が伊達安芸に斬り付けて自らも斬り殺されるという寛文事件は、実際に起こったものです。
寛文10年(1670)伊達安芸は、伊達宗倫との間にあった領地争いと、それに伴う伊達兵部らの不正を書いた訴状を奉行に出しました。

最初に訴えた寛文5年(1665)には、安芸は領地のことを訴えていただけですが、しだいにそれだけではなくなり、寛文10年の訴状では、亀千代の後見である実力者伊達兵部宗勝の圧政を訴え、国中が安堵するようにしていただきたいというものに、内容は飛躍していきました。

このように、安芸の訴えは寛文5年から数多く行われたものであり、亀千代に対する忠義のためとは思えません。林亮勝氏は安芸のことを「物事に執着して、特に自家の利益を正義にすり変えて考えるような片意地な性格をもっていた」と分析されています。

刃傷

幕府の取り調べは翌寛文11年(1671)2月16日から開始され、3月27日、審議は大老酒井雅楽頭の邸で開かれました。大書院には大老のほか、4人の老中が列座していました。1人ずつ審問を受けたのは、訴状を出した伊達安芸、3人の家老である柴田外記、古内志摩、原田甲斐の4人でした。

原田甲斐宗輔は伊達家の譜代の家臣の家柄で、祖父、宗時は武勇に優れた豪傑だったようです。宗輔は5歳で父を失い、家督を継ぎました。外記と志摩がいわば外様の成り上がり者であったのとは、微妙に立場を異にしていたようです。

外記と志摩の答えは安芸の訴えに一致し、宗輔は当惑の有様でした。尋問の終わった頃、宗輔は突然安芸に斬り付けました。安芸は2太刀を受けて即死。さらに宗輔は老中の間に駆け入りましたが、外記らによって殺害されました。宗輔、53歳でした。

乱心したとも取れるこの行動を林氏は「単純・素朴で純一な戦国武人の一面を、宗輔はその血の中に色濃く持っていたのではないだろうか」と解釈されます。しかしともかくこの行動によって、裁きの行方ははっきりと決まってしまいました。

「不忠者」の名と、遺族

5月28日、将軍の上意として安芸は忠臣であるとして顕彰され、遺領は無事に嫡子に与えられました。

それに対して宗輔の男子4人と、5歳と1歳の嫡孫2人は、6月5日に仙台で処刑されました。宗輔の母、慶月院は、不忠者が出たおかげで先祖の名を汚したと憤り、預けられた先の家で食を断って死んだといいます。世間の人々ばかりか母にも理解されず、あまつさえ芝居の世界では大悪人とされて、宗輔の名は語り継がれていくことになります。

一方、伊達兵部とその子市正は、事件の翌年、他家へお預けとなりました。兵部の暴政が取り除かれ、とにかく寛文事件の結果、伊達藩は危機を脱したのです。

『樅の木は残った』

林氏の論文と、山本周五郎の小説 『樅の木は残った』により、新しい原田甲斐像が提唱されるまでの300年間、原田甲斐は悪人と伝えられてきました。

山本周五郎は、「大老酒井雅楽頭と伊達兵部が結託して伊達藩60万石を分割し、30万石を酒井の娘をめとっている兵部の子息市正が継ぐという密約を結んでいた。宗輔はそれを防ぐために幕府側と駆け引きし、あえて逆臣の汚名も着たのだ」として小説を仕組みました。

寛文事件では宗輔が逆臣とされ、家族も成敗されたために、宗輔側の資料がほとんど残っていません。そのため、「乱心による刃傷」で片付けられたものの、はたして真実はどうだったのか、謎が残る事件なのです。

仁木弾正の魅力

国崩しの大悪人として歌舞伎に描かれた仁木弾正は、5代目松本幸四郎に息子が生まれたとき、誕生の知らせにすぐ「仁木のできる面か」と聞いたと伝えられるほど、悪役ながらも魅力的な役です。命を賭けて何事かを成そうとした、そして失敗したときに身1つを捨ててあらがおうとした宗輔の生き方が、仁木弾正の中にも生きており、それが時代を超えて人の憧れをかき立てるのでしょうか。

参考文献
・『日本人物氏大系』3「原田甲斐」(林亮勝、朝倉書店、1959年)
・『伊達騒動実録』(大槻文彦、名著出版、1970年、明治時代の出版物の再版)
・『日本騒動事典』(矢代和夫ほか編著、叢文社、1989年)

祐天ファミリー37号(H14/6/20)掲載

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