明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(5)

『伽羅先代萩』細川勝元

祐天寺研究室 浅野祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『伽羅先代萩』5

幼君毒殺の嫌疑を巡って仁木弾正と幼君方の外記左衛門の対決する幕府主宰の裁判が開かれました。、捌き役は当初、管領山名宗全1人でした。本来は2人の管領の立ち会いのもと、裁かれるはずでしたが、仁木に肩入れする山名の陰謀によって、細川には今日が裁判だとは知らされていなかったのです。中途でそのことを聞き、白州に駆け付けてきた細川により、劣勢だった外記方は、あっと言う間に逆転します。

細川は目の前で証書に実印を押せと迫ります。押せば密書の印と同じであるとわかってしまうのです。困窮した仁木はついに、袖で隠してサッと鬢より髪の毛を1筋引き抜き、それで引目を入れて印を押します。その仁木の動きを、細川は見落としませんでした。鋭い指摘に返答できなくなり、激昂して外記に斬り掛かっていく仁木弾正。裁判の黒白は付きました。

政界のエリート

川勝元は永享2年(1430)、室町幕府の管領、細川氏の本家に生まれました。13歳のとき、父の病死により家督を継ぎ、文安2年(1445)3月を最初として生涯に3度、通算21年間管領職を勤めました。 若い宗家である勝元のことを親族はよく扶け、勝元は細川家の力を強大にしました。

細川家と並ぶ三管領の家の1つ畠山持国は当時の政界実力者でしたが、横暴な振る舞いが目立っていました。そのような中で勝元は、野心家である山名持豊(宗全)の婿となり、しだいに頭角を現していったのです。勝元は宗全と共謀して持国を政権の座から追い落としましたが、今度は自信家で傲岸な性格の宗全が、徐々におごり高ぶっていったのです。

山名宗全との確執

山名宗全は赤ら顔で戦好きな性格だったと伝えられています。犬追物(騎馬で犬を追い、矢で射る競技)を好んだというエピソードも、無骨一点張りな武者らしい面影を伝えます。宗全は公家の重視する「例」に対し、「時」の重要さを説き、下克上の正当性を説いたと言われます。
『塵塚物語』巻6には、「凡そ例というはその時が例なり」と言い放ち、「過去の事例を重んずるばかりで、時流の動きを悟らないから、公家は武家に天下を奪われたのだ」と、公家を面と向かって侮辱する宗全の言葉が載っています。

これに対して細川勝元は、教養豊かな文化人であったことが知られています。達磨大師の絵を描き、五山の僧龍沢に賛を記してもらったこともあり、また京都に石庭で有名な龍安寺を建立し、寺領を寄進したりしています。龍安寺の開山として招いた義天和尚のもとには自ら参禅しています。
しかしその一方で、勝元の生活は大変奢侈であり、大飢饉の最中も自邸の池には雁が遊び、亀や魚が泳いでいたそうです。

勝元は政治では謀略を好んだようであり、すぐ武力に訴える宗全とでは、婿舅の間柄であるといっても、意見の相違が出てくるのも当然でした。
将軍義政の後継者を巡って勝元が足利義視を、宗全が足利義尚を支援したことは、全国の大名を巻き込んだ一大戦争、応仁の乱の一因となりました。全国の大名は東西の2手に分かれて戦いましたが、戦いが膠着状態にあった文明5年(1473)3月、西軍の宗全は数え年70歳で世を去ります。これで東軍の形勢有利と思えた矢先の5月に、なんと東軍の総帥勝元までが44歳の若さで流行病によって死去してしまったのです。

2人の死によって、戦の目的はしだいにうやむやになり、両軍の間には部分的に講和条約が結ばれていくようになりました。しかし、いったん戦場と化した京の町の荒廃は長く残るのでした。
陰謀術数に長けた勝元が死去したとき、『応仁記』は「天のなすところ」と評しています。

捌き役、細川勝元

当時、このように世の中で評価されていた勝元が歌舞伎の世界では正義感あふれる理知的な「捌き役」(思慮分別に富み、事件に際し理非曲直を取りさばき、見事な解決を付けるような役をいう-『歌舞伎事典』)を割り当てられているのはなぜでしょうか。

『応仁記』冒頭に掲げられた「野馬台詩」は、中国で作られた日本に対する予言の書で、中世以降の百王思想(日本は百王の間は栄えるが、それ以後は争乱の時代となるという考え)のもととなった詩です。末尾に「百王流畢竭 猿犬称英雄 星流鳥野外 鐘鼓喧国中 青丘与赤土 茫々為空」とあり、犬と猿が自分こそ英雄だと称して戦うと書かれています。勝元は永享2年(1430)戌年生まれ、宗全は応永11年(1404)申年生まれであるため、この2人が犬と猿の英雄ではないかという噂が高まり、2人をライバル視する見方が当時から一般的だったようです。

ではどちらが歌舞伎の場合の善役に当てやすいかと言えば、風雅を愛した勝元のほうであったろうと思われるのです。勝元の文化人らしさに対し、宗全の武闘派らしいイメージが、あまりにも対照的な好一対で歌舞伎の善役と悪役という位置付けに分かれた一因でしょう。ただ、正義漢と言っても、知略に長けた人物像に描かれているあたりは、歴史上の細川のイメージを生かしていると言えるでしょうか。

参考文献
・『応仁記・応仁別記』(本文、解題。和田英道編、「古典文庫」第381冊、1978年)
・『応仁記』(「日本合戦騒動叢書」2、志村有弘、勉誠社、1994年)
・『塵塚物語』(「改訂史籍集覧」第10冊、1901年改訂版発行、1983年同復刻版発行)
・『山名宗全と細川勝元』(小川信、
新人物往来社、1994年)
・『歌舞伎事典』(下中弘編集発行、平凡社、1983年)

 祐天ファミリー39号(H14/12/1)掲載

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