明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(7)

『六歌仙容彩』喜撰法師

祐天寺研究室 浅野祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『六歌仙容彩』

天保2年(1831)、江戸中村座で初演された歌舞伎舞踊。松本幸二作詞、10世杵屋六左衛門・初世清元齋兵衛作曲。『古今和歌集』作者の中で、六歌仙と言われる歌の名手6人のうち、小野小町以外の僧正遍照、在原業平、文屋康秀,喜撰法師、大伴黒主の5人を踊り分ける変化舞踊。それぞれが小野小町に思いを寄せるがかなわない、という趣向になっています。

喜撰法師

わが庵はみやこの辰巳しかぞ住む 世をうぢ山と人はいふなり

百人一首にも入っている、有名なこの歌の作者が喜撰法師です。喜撰法師については詳しいことはわかっておらず、歌も、確かに喜撰作だと言えるものはこの1首だけです。
『古今和歌集』仮名序では喜撰の歌について、「詞幽かにして始め終り確かならず。いはば秋の月を見るに暁の雲にあへるが如し」と評しています。人物伝ばかりか歌風も曖昧朦朧としているわけです。ただ、『喜撰式』という歌学書を記したとされ、優れた歌学者であった可能性があります。

『扶桑隠逸伝』を見ると、出家して初めは醍醐の山におり、のちに宇治山に移ったと言います。そして仙術を学び、嶺から雲に乗って飛び去ったと伝えられます。

高崎正秀氏の論を引くと、喜撰がいたという醍醐は修験当山派の本山であり、三室戸寺にもいたと言いますが、そこは本山派聖護院の管轄にある寺院です。喜撰には修験道の影が感じられます。
また、岩窟に住んでいたという伝承もあり、中国から伝えられた神仙思想の影響を感じさせます。

古来、宇治とその奥の近江地方は蝉丸、猿丸といった法師でありながら隠逸者である者が住処とする場所でした。しかも、彼らは歌詠みであることが多かったのです。喜撰像は修験、また神仙のイメージをまとった、曖昧な、畏敬すべき人物像として成立していたと言えましょう。

神仙について有名な例をご紹介しておきましょう。日本の仙人として名高い久米仙人の伝説が伝えられていますが、これは、久米仙人が飛行中、川で洗濯する女の真っ白い脛を見て魅惑され、神通力を失って墜落し、ついに女と夫婦になったという話です。女性に魅惑されることもある、という仙人についてのイメージは、この説話を知る者には普及したイメージでした。

喜撰法師の系図についても確証はないのにいろいろな俗説があります。桓武天皇の末裔であるとか、大納言紀名虎の孫だというものなどです。尊い家の子孫が隠遁して山奥で庵暮らしをしているという設定(貴種流離譚)も、人々のロマンをかき立てるものだったかもしれません。

踊りでは喜撰法師は、桜の枝に一瓢をぶら下げた、飄々とした姿で登場します。身なりも普通の僧と変わらぬ姿。茶汲み女のお梶にふざけかかったりし、茶目っ気たっぷりの様子です。
清元の詞章も粋なものです。

我庵は芝居のたつみときは町 しかも浮世を離れ里・・・

惚れ過ぎる程ぐちな気に心のそこのしれかねて・・・

ヤレ色の世界に出家を遂げて

ヤレヤレヤレヤレこまかにちょぼくれ愚僧が住家は京の辰巳の世を宇治山とや人は云ふなり

お梶に戯れかかるあたりに、久米仙人を思わせるものがあります。

お梶は実は小野小町という設定(これは、歌舞伎によくある手法)ですが、粋な素振りで喜撰法師を体良くかわして去っていきます。
このお梶のモデルではないかと思われる人物がいます。「祇園梶子」として『古今墨蹟鑑定便覧』に紹介される人物です。

梶は茶店の娘ですが有名な歌人だったそうです。歌人たちの間に人気があり、贈答歌をしきりに求められたようです。
このような様子は、小野小町の身をやつした姿とする喜撰のお梶のモデルではないかと思わせるところです。

安永4年(1775)成立の『歌俳百人選』には京都祇園梶女の歌として、

及なき雲の上なるあわれさを 雨の下とてぬるゝ袖かな

の1首を挙げ、「仙洞様在たる時き。祇園の。水茶屋にて。かじと申す賎しき女。かゝるやんこと無き。上様の。御追福を。誰壹人申あげる人無きに御愁傷の。詠歌をもふし上候事。やさしき心ばへと云可し」とし、亡くなった法皇の追福の歌を詠んだ梶の、よく気の付く優しい心をほめています。さらに、小野小町も実は賎しい生まれで出羽国出身だったが、和歌が巧みだったので高位の者にも交わるようになったのだと書いており、歌のうまいお梶から小野小町を連想しています。このようにお梶から小野小町を連想した者は多くあったのではないかと思わせられます。

お梶に去られ、独り取り残された喜撰を、やがて弟子らが大勢で迎えにきます。沓を履き、衣を着、傘を差しかけられて帰る姿は、立派な大寺の住僧。1人で歩いていたのは、身分をやつした仮の姿だったのです。

こういうところに江戸時代の人々は美学を感じたようで、平安時代の、神仙の気分を漂わす曖昧模糊とした隠遁者喜撰は、大寺におり身分がありながらも、隙を見て瓢を友にさまよい歩く、飄逸な僧に見立てて表現されたのです。

参考資料
・ 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年)
・ 「六歌仙の話」(高崎正秀、桜楓社、1971年)
・ 「喜撰私考」(高崎正秀、桜楓社、1971年)
・ 『喜撰法師』(『清元大全』、浜田書店、1967年)
・ 『扶桑隠逸伝』(『深草元政集』3、古典文庫、1977年)
・ 『古今墨蹟鑑定便覧』(『近世人名録集成』4、勉誠社、1976年)
・ 『歌俳百人選』(海寿編、せきね文庫選集、教育出版センター、1983年)

祐天ファミリー41号(H15-4-15)掲載

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