明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(8)

『六歌仙容彩』2 小野小町

祐天寺研究室 浅野祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『六歌仙容彩』

天保2年(1831)、江戸中村座で初演された歌舞伎舞踊。松本幸二作詞、10世杵屋六左衛門・初世清元齋兵衛作曲。

『古今和歌集』作者の中で、六歌仙と言われる歌の名手6人のうち、小野小町以外の僧正遍照、在原業平、文屋康秀,喜撰法師、大伴黒主の5人を踊り分ける変化舞踊。それぞれが小野小町に思いを寄せるがかなわない、という趣向になっています。

小野小町

小野小町ほど有名でありながらその人生が判然としない人物はなかなかいないでしょう。
小町は平安時代の貴族、小野篁の孫だと伝える書物があります。また、子であるという説もあります。しかしそのどちらにも従いがたく、出自は不明とするしかありません。活躍期は仁明天皇の時代(833~850)とほぼ重なるとされます。小町の人生を探るときは『小町集』という歌集を頼りにするしかありませんが、ほかに小町には数多の伝説があり、人々の脳裏のイメージはこれによって作られた部分が多いと言えます。

伝説の中で最も有名なのが、小町は老いてのち落ちぶれ果てたとするもので、この伝説を踏まえてでき上がったのが『玉造小町壮衰書』という書物です。主人公は小野小町だとは書かれていませんが、当時の人々は小野小町だと思って読んだようです。

美女の落魄

『玉造小町壮衰書』の主人公は若い頃、楊貴妃にも勝るようなせんけんたる美女で、美しく装って暮らし、求婚者は数限りなかったそうです。しかし、妃の位を心に掛けて彼らを拒んでいるうちに、頼りにすべき肉親が次々に死んでしまい落ちぶれ果て、垢の付いた衣を着て蕨を摘んで暮らしていた、という話です。
『小町集』に載る、

花の色はうつりにけりな いたづらに我が身世にふる ながめせしまに

の歌(花のような容色が衰え、色あせてしまったなあ。男にかかずらって空しく年をとり物思ひにふけっている間に…。片桐洋一氏訳)による、世間の「小野小町」観が、美人で栄えていたが年を取って衰えたというイメージだったことと重なりやすかったので、この伝説と『壮衰書』は広まったと考えられます。
美人だったが、驕慢だったという伝説もここから生まれます。謡曲『通小町』にあるように、百夜通えば思いをかなえようという小町の言葉により深草少将が99夜通ったが、疲れて死んでしまったという伝説もその類です。

また、驕慢であるほかに肉体的欠陥があったとする伝説もあるのですが、これらを意識して、『六歌仙容彩』でも5人の求愛者すべてを振り払うという構成になっていると言えます。

5人の求愛者と小町

深草の少将とは誰かという問題で、江戸時代の国学者本居内遠は「良少将」と呼ばれた良岑宗貞つまりのちの僧正遍照であると述べています。また、『小町集』の中には石上神宮に詣でて知り合いの遍照がいると聞いて贈った問答歌も載っています。「寒いので苔の衣(僧侶の衣のこと)を貸してください」と戯れて贈った歌に対し、遍照は「苔の衣は1枚きりなので貸せません。しかし、そうするとよそよそしい。では、2人で一緒に衣を着て寝ましょう」と、これも戯れて返歌をしています。『六歌仙容彩』の求愛者の1人に僧正遍照が登場するのは、このような説話と問答歌によるものです。

求愛者として文屋康秀も登場しますが、この人物も『小町集』に登場します。文屋康秀が三河の国の掾として下向するときに、一緒に行きませんかと誘ったのに対する返歌です。

わびぬれば身をうき草の根を 絶えてさそふ水あれば いなむとぞ思ふ

わびしく住んでいますから、誘ってくださる方がいるならば行きたいと思いますと詠んでいます。しかし、これは親しい関係での戯れの贈答であり、恋の贈答ではないとされています。

やはり求愛者とされる在原業平は、美男の誉れ高く、昔から2人が恋人だったとする説はあったようです。しかし、それは『伊勢物語』(業平を主人公としたと思われていた)の注釈書の影響によるものとみられます。

大伴黒主に関しては、謡曲『草紙洗小町』にあるように、黒主が小町の歌才に嫉妬していたとする説話もあります。『六歌仙容彩』では小町に心を寄せる黒主は、自分の恋をかなえるならばその歌を小町の歌であると奏聞(天皇に申し上げること)しようと小町に持ち掛けますが、拒絶されるという話になっています。

このように、『六歌仙容彩』に出てくる男性たちは、皆(喜撰法師は関係がないため、お梶を実は小野小町という形にして、間接的な表現にしています。前号参照)小野小町と説話上、何らかのつながりがあったとされる人物であることがわかります。『六歌仙容彩』の中には、こうした説話が生きているのです。

「関の扉」の小町

小野小町は、歌舞伎の「世界」(時代背景等を設定する基準)の1つにもなっているほどの人物であり、ほかの作品にも登場しています。

『重重人重小町桜』(「関の扉」)では小町は良岑宗貞の恋人であり、宗貞と生き別れてのち、天皇に無理に入内をさせられそうになると、館を出て1人身を忍ぶ、情熱的で行動的な姫として描かれます。
『古今集』では小町の歌を、「あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめるところあるににたり」と評しています。小町の歌の特色は、美人が悩んだ風情であるとしているのです。小町自身のイメージも、恋に悩む美女であったと言えるでしょう。それは、平安朝の美女のイメージそのものでした。

江戸時代の歌舞伎に登場するヒロインは、それだけでは足りません。嫋々たる美女というだけでは、ドラマは進行しないからです。自ら欲し、行動する、情熱的な姫や娘の役が数多く生まれます。「関の扉」の小町もその1つで、歌舞伎の美学に裏打ちされて造形された人物像であったと言えるでしょう。『六歌仙容彩』では、皆の情熱の対象として、いわば陰画の形で描かれていた小町ですが、「関の扉」では陽画として描かれているわけです。

〈参考文献〉
・『玉造小町壮衰書』(岩波文庫、杤尾武校注、岩波書店、1994年)
・『伊勢物語抄』(冷泉為満講、『伊勢物語古注釈コレクション』片桐洋一編、和泉書院、2000年)
・「関の扉」(名作歌舞伎全集19『舞踊劇集』、東京創元新社、1970年)
・「小野小町の考」(本居内遠、『本居全集』6、片野東四郎、1903年)
・『小野小町追跡』(古典ライブラリー1、片桐洋一、笠間書院、1975年)

祐天ファミリー42号(H15-6-15)掲載

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