明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(9)

『六歌仙容彩』3 在原業平

祐天寺研究室 浅野祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『六歌仙容彩』

天保2年(1831)、江戸中村座で初演された歌舞伎舞踊。松本幸二作詞、10世杵屋六左衛門・初世清元齋兵衛作曲。

『古今和歌集』作者の中で、六歌仙と言われる歌の名手6人のうち、小野小町以外の僧正遍照、在原業平、文屋康秀,喜撰法師、大伴黒主の5人を踊り分ける変化舞踊。それぞれが小野小町に思いを寄せるがかなわない、という趣向になっています。

業平の生い立ち

『伊勢物語』の主人公とされ、美男で数々の恋物語の伝説が付きまとう在原業平の生涯は、あまりはっきりとはわかっていません。

業平は平城天皇の皇子である阿保親王と、桓武天皇の皇女である伊都内親王との間に生まれた子であり、父方、母方ともに祖父は天皇という極めて家柄の良い家系でした。兄弟とともに天長3年(826)に臣籍に降り、在原姓を名乗りました。
しかし家柄は良くても、業平には複雑な家の事情がありました。父方の祖父平城天皇は、嵯峨天皇に譲位後の大同5年(810)に薬子の変と呼ばれる謀反を起こし、それに失敗してからは幽閉されて生涯を終えた人でした。
その皇子である阿保親王(業平の父)は薬子の変のとき19歳でしたが、以来14年もの間、太宰権師として流人の憂き目を見たのです。辛酸をなめたせいか阿保親王は、承和の変(842年)のときには密告者の側に回りました。阿保親王はこの事件の3か月後に亡くなり、密告の功により一品(親王の最高位)が追贈されますが、そのとき18歳だった業平の心に与えた影響は計り知れません。

またこの頃は、この変を1つの契機として良房が権力を一手に掌握し、藤原北家による摂関政治が始まりつつある時代でした。北家以外の者は皇族であっても疎外感、無力感、反発を抱いたのです。

体貌閑麗、放縦不拘

このような影響を受けたせいか、『日本三大実録』には業平が次のように紹介されています。

業平体貌閑麗、放縦不拘ニシテ、略才学無ク、善ク倭歌ヲ作ル

在原業平は容貌姿態が美しく、勝手気ままで規則やしきたりに縛られずに行動する。学問は修めておらず、和歌は巧みであるという内容です。今井源衛氏は「不拘」は「必ずしも悪い意味ばかりではなく、むしろ、記者が好感を寄せたような例も多い」とされ、「自由で豊かな人間性」を示す言葉だとされています。

『伊勢物語』のロマンス

業平をモデルとしたとされる『伊勢物語』は、いくつもの恋愛で彩られています。なかには、東宮の后と定まっていた女性との密会や、伊勢斎宮との神秘的な交情などもあり、それらは禁断の領域にまで踏み込みながら、優美な歌と文章によって現代に至るまで人の心を魅了するものです。

二条后高子と見られる女性が姿を隠してしまって1年後の春、かつて彼女が住んでいた空き家に業平が訪ねていった場面は以下のとおりです。

去年を恋ひていきて、立ちて見、ゐて見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷
に月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる、月やあらぬ春や昔の春ならぬ                            わが身ひとつはもとの身にして

前出の今井氏は、2人の密会は貞観元年(859)から3年の間だとされ、そのために高子の入内が遅れ、業平も1位階落とされたとされています。

小町と業平

業平が美男だったことは『日本三大実録』にあるのでほぼ確かであり、同時代の人物で美女だったとされる小町と業平を恋人として結び付ける説話が生まれましたが、それ以上に有名だったのは中世の『無名抄』などに見える説話です。
業平は二条后高子を盗み出して見つかり、罰としてもとどりを切られてしまいました。髪が伸びるまで東国へ下りましたが、その折に八十島というところで野宿すると、

秋風の吹くにつけてもあなめあなめ

という声がします。それは小野小町の髑髏で、眼窩にススキが生えて痛がっているのでした。業平は気の毒に思い、

小野とはいはじ薄生ひけり

と下の句を付けたというものです。
小野小町が年老いてのち落魄したという伝説(前号参照)とかかわるものです。

『六歌仙容彩』では焦がれる業平を振りきって小町が去るという構成になっていますが、そのとき詞章に「振り切る手には、思ひの丈、心あまりて詞なく、読み人知らずと帰らるる」とあるのは、『古今集』仮名序にある業平の歌の評、「心あまりて詞たらず」を効かせています。

心あまりて詞たらず

歌に心を盛り込んでいるが、それが多すぎて言い尽くせていない、というほどの意味です。今井氏は「きわめて短小の語彙のうちに、極大の内容を盛り込む」特徴があると言い、阿部俊子氏は「正確にその表現の中から真意を捉みとろうとすると難解」と述べています。

『競伊勢物語』の業平

『伊勢物語』第23段に、

筒井つの井筒にかけしまろがたけ 過ぎにけらしな妹見ざるまに

と詠む男が出てきます。
この歌の詠み手の男性は一般読者には業平だと思われているわけですが、本文には「田舎わたらひしける人の子ども」(地方へ出掛けていって生計を立てる仕事をしていた人の子どもたち)とあり、原『伊勢物語』が業平の物語として練り上げられていく過程に漏れ、業平の物語に同化しきっていないとされる話です。
この段は謡曲『井筒』の素材にもなっていて有名な段ですが、江戸時代にできた歌舞伎の『競伊勢物語』では、業平と井筒姫(帝の息女)が恋人という設定で出てきます。そしてその2人と瓜二つのカップルが豆四郎と信夫(紀有常の娘)で、この2人は業平たちの身代わりに犠牲となります。

現実には業平と関係があった女性は紀有常の娘であり、棟梁という子どももなしています。このあたり歌舞伎作者は観客の脳裏にある名前を巧みに利用しつつ、事実と虚構をすげ替えながら作劇していると言えましょう。とにかく、事実も虚構もすべて有名であるあたり、業平という人物の日本文化史上での偉大さを感じないわけにはいきません。

参考文献
・『日本三代実録』(国史大系4、黒板勝美編、吉川弘文館、1966年)
・『伊勢物語全訳注』上下(講談社学術文庫、阿部俊子、講談社、1979年)
・『無名抄』(日本古典文学大系、鴨長明、『歌論集 能楽論集』、久松潜一ほか校注、岩波書店、1961年)
・『競伊勢物語』(『名作歌舞伎全集』5、利倉幸一ほか監、東京創元新社、1970年)
・『在原業平』(王朝の歌人3、今井源衛、創美社、1985年)
・『在原業平・小野小町』(日本詩人選6、目崎徳衛、筑摩書房、1970年)

祐天ファミリー43号(H15-9-1)掲載

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