明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(11)

『其小唄夢廓』1 白井権八

祐天寺研究室 浅田祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『其小唄夢廓』

福森久助作。文化13年(1716)正月、江戸中村座で初演された『比翼蝶春曽我菊』の2番目序幕・2幕目が後世に残ったもの。地に使われた清元の浄瑠璃名題が狂言の名題として伝わりました。通称「権八」と言われます。

上下に分かれており、序幕の鈴ヶ森で権八が処刑される間際に小紫が駆け付けて水盃のやり取りに見せかけて縄を切る「夢の場」は「権八」の上の巻なので通称「権上」と言います。2幕目の下の巻は小紫が権八の前髪を剃って逃がそうとする「小紫部屋の場」で、通称「権下」と言います。

権八のモデル

白井権八のモデルとなったのは、平井権八という若者です。芝居や小説に多く取り上げられたために非常に有名になりましたが、年代の合わない幡随院長兵衛との関係はもちろん、小紫との関係も事実ではないとする見方もあります。権八の話は実録を中心に形成されていきました。

ここでは実録(主に近世に起こって、世間の耳目を集めた事件を、虚実織り交ぜて書いた小説体の読み物)などから採話したと思われる三田村鳶魚の「権八小紫」の話を中心に、実録『石井明道士』の話を加えて、権八の生涯を紹介していきたいと思います。

権八の生涯

■出奔

寛文12年(1672)秋の末、権八は父の同僚である本庄助太夫が父を侮辱したのを憤り、その夜助太夫宅に押し掛けて一刀のもとに斬り殺し、それから出奔します。
本庄助太夫が平井正右衛門を侮辱したいきさつは次のようなものです。
あるとき城中で正右衛門が同僚と話をしていて、武士たるものが畜類などをかわいがるのは良くないと言いました。それを助太夫が聞き、自分は犬好きであったため腹を立てました。そこで、ただ今登城の折、平井氏の犬と自分の犬とが噛み合いをしたが、平井氏の犬が負け、尾を尻の間に挟んで見苦しいさまで逃げていった、動物は飼主の気性を受けるもので、勇者に飼われると勇敢になるが、惰弱な人間に飼われると惰弱になる、と言いました。

人々は息を呑みましたが、正右衛門は顔色も変えず、家の犬は餌も十分でないし、老年である自分の飼い犬なので勇気が出ないのであろうと述べ、帰ってしまいました。正右衛門は老齢のうえ篤実な人でしたのでこのように受け流したのですが、この話を息子の権八が聞いて激怒したものだというのです。
殺人を犯した権八は父から金をもらって出奔し、その金がなくなると強盗を働きながら江戸に出ました。

『浮世柄比翼稲妻』の鈴ヶ森の場で幡随院長兵衛と出会うのは、この旅の終わり頃という設定ですが、この2人の活躍時期は時代が違い、出会ったはずはありません。

■江戸の暮らし

江戸で権八は渡り徒士(大名の家を渡り歩いて勤める、身分の軽い武士)として暮らしました。そのうち吉原の三浦屋小紫という遊女となれそめ、足繁く通うようになります。吉原の高級遊女に会うために必要な多くの金、渡り徒士の給金では賄いきれないそれを、権八は強盗で得ました。この頃、権八に殺された者は130余人にのぼったと言います。

本庄助太夫の子である助七、助八は敵討ちの旅に出ますが、江戸で権八に逆に返り討ちに遇います。

絹売り弥市を襲ったことからお尋ね者になった権八は、とうてい逃れられないと悟ると、必ず自首するので、一度帰って父母の安否を知るまでの間の世話をして欲しいと、東昌寺の門をたたきました。東昌寺の住職随川は権八の願いを聞き届け、虚無僧の作法を教えました。権八は故郷に行き、両親ともにすでに亡くなっていることを知りました。

大坂で自首した権八ですが、藤沢で逃走しました。愛人小紫にもう1度逢うためです。逢瀬を遂げたのち、再度江戸で自首した権八は磔の刑と決まりました。

■八重梅

延宝7年(1679)11月3日、権八は鈴ヶ森で処刑台の露と消えました。いざ槍で突かれるという際に、権八は「しばらく」と突き手を止め、「八重梅」という小唄を美声で唄ったと伝えられます。

東昌寺随川は権八の遺骸を納めて寺の一隅に葬りました。

参考文献
・『歌舞伎事典』(下中弘、平凡社、1983年)
・「権八小紫」(『史実と芝居と 江戸の人物』、三田村鳶魚、青蛙房、1956年)
・「平井権八伝説と実録・読本」(小二田誠二、『日本文学』43巻2号、1994年2月)

祐天ファミリー45号(H16-2-15)掲載 

TOP