明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(12)

『其小唄夢廓』2 小紫

祐天寺研究室 浅田祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『其小唄夢廓』

福森久助作。文化13年(1716)正月、江戸中村座で初演された『比翼蝶春曽我菊』の2番目序幕・2幕目が後世に残ったもの。地に使われた清元の浄瑠璃名題が狂言の名題として伝わりました。通称「権八」と言われます。

上下に分かれており、序幕の鈴ヶ森で権八が処刑される間際に小紫が駆け付けて水盃のやり取りに見せかけて縄を切る「夢の場」は「権八」の上の巻なので通称「権上」と言います。2幕目の下の巻は小紫が権八の前髪を剃って逃がそうとする「小紫部屋の場」で、通称「権下」と言います。

小紫の自害

権八が処刑場の露と消えて、7日目のことです。
権八の墓のある東昌寺へ、若い女が墓参りに来ました。墓と言っても、木の墓標が建っているだけです。住職の随川は、「親類の者」と名乗るその女を、さては噂に聞いた権八の愛人、小紫であろうと心に思いましたが、何も言わずに墓参を許しました。回向料として20両の包みを随川に渡したあと、女は1人で墓に向き合って涙を流しながら香を焚いて観音経を読誦していましたが、やがて気を取り直して短刀を出すと喉を突きました。随川は急いで朱に染まった女を介抱しましたが、もうこときれておりました、というのが『権八小紫比翼墳』など近世の読み物の書き方です。
小紫というのは三浦屋の名妓に付ける名です。三田村鳶魚によると、正徳3年(1713)の『吉原七福神』に、「年はまだ15歳ばかりだが十五夜の月のように美しく、三浦屋の一門93人の傾城のうちでも図抜けた若者で、小林朝比奈とでもいうべき存在で、末が頼もしいことです」と書かれているのは、3代目小紫のことだそうで、権八と縁があったのは2代目だそうです。

また、当時の流行歌を集めた『淋敷之慰』にあるのほほん節に、「小紫とは誰名を付た/\、色にそみては/\うへがない」と、その評判を唄われたそうです。
人気絶頂の名妓小紫が自害したことで、その相手である権八の名も不朽となったと言えましょう。
小紫は年季が明けてから自害した、違う客に身請けされてから目黒東昌寺へ行った、権八の恩を受けた三浦屋の若い者の手引きで目黒へ行ったなど、どのように小紫が自害したかについてはいくつも説があり不明ですが、権八と小紫を祀った比翼塚は今も目黒不動の参道にあります。

参考文献 『権八小紫比翼墳』(花轆や蝶夢、鶴査社、1887年)、『吉原七福神』(『遊女評判記集』上、近世文学書誌研究会編、勉誠社、1978年)、「権八小紫」(『史実と芝居と 江戸の人物』三田村鳶魚、青蛙房、1956年

 祐天ファミリー47号(H16-6-20)掲載

TOP