明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(13)

『桐一葉』片桐且元

祐天寺研究室 浅野祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『桐一葉』

坪内逍遙作の新歌舞伎。明治27年(1894)11月から明治28年(1895)9月まで、『早稲田文学』に連載されました。逍遙は演劇改良を唱えており、明治26年(1893)には『我が邦の史劇』を発表しました。その範例として『桐一葉』は書かれたものです。

物語は、豊臣家崩壊を目前にして忠節を尽くすが、淀殿らに誤解され、ついには大坂城をあとにする片桐且元の孤高の境地を描いたものです。

且元と家康

且元は、家康とも親密な関係にありました。慶長4年(1599)正月、豊臣秀頼が伏見城から大坂城に移った際、有力大名も行動をともにしましたが、その折、大坂城下の且元邸に家康が宿泊したという記録があります。

関ヶ原の戦いの折、且元は石田三成方に加担しますが、家康からとがめはなく、慶長6年(1601)には逆に1万8、000石もの加増を受けます。また、秀頼の傳から家老となります。

家康は畿内やその周辺地域を対象とした知行宛行(統治を認めること)を行いましたが、その文書に且元も署名しています。豊臣家家老の且元が家康による知行宛行に協力したことは、一見矛盾した行動に見えます。しかし、且元が豊臣家を存続させることを最優先していたと考えると、それほどの矛盾はありません。慶長10年(1605)代になってからは、徳川方の国奉行にもなっています。
また、豊臣蔵入地(豊臣氏が直接支配し、年貢を徴収する直轄地。しかし私領ではなく、公的な所領としての性質を持つ)を家康が接収する手助けもしました。

家老として豊臣氏存続を図ってはいましたが、家康から領地を与えられていた且元にとっては、武家の棟梁である将軍となった家康の力となることは、むしろ当然のことでした。

大坂冬の陣・夏の陣

豊臣と徳川、両者間の平和を図っていた且元が苦境に立たされるのは、方広寺の鐘銘事件からです。

家康の勧めで秀頼は京都方広寺の大仏を鋳造し、鐘も鋳造しました。ところが、その銘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、家康を呪い、豊臣家の繁栄を祈った不吉なものだという主張が、徳川方から寄せられました。家康は何とか豊臣方と開戦する口実が欲しかったのです。
且元は事情を家康に説明するため、慶長19年(1614)4月24日、駿府に向かいました。且元は1か月近く駿府に滞在し、結局家康には対面できずに大坂に戻りました。ところが大坂方では且元が長く戻らないことに業を煮やし、大野治長の母・大蔵卿局らを駿府へ派遣したのです。

老巧な家康は、この一行を丁重にもてなしました。その結果、大蔵卿局らの復命と、且元の復命とに食い違いが生じ、淀殿は且元に疑いを抱くようになりました。且元は裏切り者という烙印を押され、大坂城では、出仕する且元を殺害しようという謀略が企てられました。
且元は病気と称して出仕しなくなりましたが、ついに10月1日、大坂城を立ち退きました。

同じ10月1日、家康は大坂城への攻撃を決定し、諸大名に陣触を出しました。大坂冬の陣の始まりです。
難攻不落の大坂城に手を焼いた徳川方は、いったん和議を結び、大坂城の堀を埋めました。しかし、やがて家康は再び豊臣方に難題を突き付け、元和元年(1615)4月、大坂夏の陣が始まりました。5月8日、秀頼と淀殿は自殺し、豊臣家は滅亡するのでした。且元の軍も、大阪城を囲んだ軍勢の中にありました。

且元は同年5月28日に京都の屋敷で死去しました。死因は肺病かもしれないとされています。

且元は『桐一葉』では、裏切り者と誤解されながらも豊臣家のために尽くす忠臣として描かれました。確かに且元は家老職として、豊臣家存続のために力を尽くしました。しかし、一方で領地をもらった家康に仕える面があったことも事実です。
且元を考えるうえで、単純な忠・不忠論は当てはまらないようです。戦国大名として、そのときそのときを正直に生きた結果が、且元の生涯であったと言えるでしょう。

参考文献
『片桐且元』(人物叢書、曽根勇二、吉川弘文館、2001年)
『桐一葉 鳥辺山心中 修善寺物語』(歌舞伎オンステージ24、藤波隆之編著、白水社、1992年)
『大坂冬の陣夏の陣』(創元新書、岡本良一、創元社、1972年)

祐天ファミリー49号(H16-12-1)掲載

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