明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(14)

『桐一葉』淀殿

祐天寺研究室 浅野祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『桐一葉』

坪内逍遙作の新歌舞伎。明治27年(1894)11月から明治28年(1895)9月まで、『早稲田文学』に連載されました。逍遙は演劇改良を唱えており、明治26年(1893)には『我が邦の史劇』を発表しました。その範例として『桐一葉』は書かれたものです。

物語は、豊臣家崩壊を目前にして忠節を尽くすが、淀殿らに誤解され、ついには大坂城をあとにする片桐且元の孤高の境地を描いたものです。

2度の落城

淀殿は、永禄10年(1567)、近江の国東浅井郡小谷城で、浅井長政の長女として生まれました。母は、織田信長の妹お市姫です。長政と市は夫婦仲も良く、3女2男に恵まれました。幸せな少女時代を過ごしたおちゃちゃ(のちの淀殿)でしたが、やがて戦乱の渦に巻き込まれていきます。7歳のとき、信長に攻められて小谷城は落城し、父長政は自刃しました。お市の方と3人の姫は、信長のもとに身を寄せます。それからおちゃちゃは母の膝下、清洲城で成長します。

天正10年(1582)、天下統一を目前にした信長が本能寺で明智光秀に倒されると、残された家臣の間で織田家の跡継ぎ問題を巡る争いが始まります。光秀を討ち取った羽柴秀吉が信長の嫡孫、三法師丸を推したのに対して、重臣柴田勝家は、信長の3男織田信孝を擁立しました。

そこに加えて、お市の方を巡る恋の争いが起こりました。勝家も秀吉も、主君信長の在世中は手の届かなかった絶世の美女お市の方に心を懸けていたのです。信孝の斡旋でお市の方は勝家に輿入れしてしまいますが、翌天正11年(1583)に勝家の越前北荘城を秀吉が攻めた賤ヶ岳の合戦は、恋の怨みからの戦だとも言われます。

落城前夜、覚悟を決めた勝家は、お市の方に城を出ることを勧めましたが、お市の方は勝家とともに自刃する気持ちを変えませんでした。しかし、3人の娘のことは道連れにするに忍びず、秀吉の陣屋に届けさせたのでした。
おちゃちゃはこのようにして、2度目の落城にも立ち会い、義父勝家と、生みの母お市の方と死に別れたのでした。17歳のときでした。

太閤の寵妾

それからのおちゃちゃの消息はわかっていません。確かな記録の上に彼女の消息が現れるのは、天正17年(1589)5月27日、淀城で秀吉の嫡男鶴松を儲けてからです。おちゃちゃは23歳でした。鶴松を懐妊中に淀城は造られており、1城を与えられ、立派に側室として待遇されたことがわかります。この頃から秀吉はおちゃちゃを「淀の者」「淀の女房」などと呼んでおり、「淀殿」という呼び方が成立したことがわかります。

なお、「淀君」という呼び方が普及していますが、これは遊女の呼び方であって、淀殿を貶める呼び方だそうです。江戸時代はそう言い習わされてきました。

この年12月、淀殿は画工に命じて亡き実父母、浅井長政と小谷の方(お市の方)の画像を描かせ、それを高野山持明院に納めました。長政の17回忌で、同時に小谷の方の7回忌にあたる年であり、子どもが生まれた祝いの中にも、淀殿の脳裏には亡父母と浅井家のことがあったことがわかります。

長男鶴松は3歳で逝去してしまいましたが、2年後、淀殿は再び男子を産みます。「拾」と名付けられたその子(のちの秀頼)は、太閤・秀吉の溺愛を受けて育ちました。

慶長3年(1598)3月15日には、醍醐の三宝院で太閤の観桜の宴が催されました。「醍醐の花見」として名高いものです。淀殿は太閤の正室である北政所やほかの側室たちとともに参加し、華やかな1日を過ごしました。

その年の8月18日、太閤は62歳で生を終えました。秀頼の行く末を案じながらの最期でした。

関ヶ原前後の淀殿

太閤の死後、慶長4年(1599)正月10日、淀殿はその遺言に従って、秀頼とともに大坂城西の丸に入りました。北の政所がその年の9月、大坂城を出て京都の屋敷に移ると、淀殿は持ち前の勝ち気な性格を押さえる者がいなくなったため、勝手な挙動が多くなったようです。

秀頼の乳母大蔵卿の局の子、大野修理は淀殿と同年配で美男だったとされており、淀殿と密通したという噂があります。事実は不明ですが、このことはさまざまな作品に粉飾されています。『桐一葉』でも淀殿(淀君)が大野修理(修理亮)と恋仲である様子が描かれています。

淀殿が石田三成や名古屋山三郎と関係があったという創作作品もありました。
淀殿と修理との関係は不明ですが、淀殿が豊臣家の跡継ぎ秀頼の後見役として難攻不落の大坂城にあり、勝手気ままに振る舞っていたことは確かだと思われます。『桐一葉』でも淀殿の専横ぶりに片桐且元らが苦悩するありさまが描かれていますが、それには真実の部分もあったと言えるでしょう。

ところが太閤の没後、天下の情勢は急変し、五大老筆頭の徳川家康と五奉行の代表格石田三成との2派の争いになってきました。その集大成として起きたのが、慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の合戦です。

滅びへの道

合戦に勝利して事実上天下の覇者となった徳川家康は、2年半後の慶長8年(1603)2月、朝廷に奏請して右大臣・征夷大将軍に任ぜられました。

家康は最初豊臣家に対して懐柔策を採り、秀忠の娘千姫を秀頼に嫁がせました。家康が最初の思惑を棄て、大坂討伐の意志を固めたのは、慶長10年(1605)秀忠が第2代将軍となったときの出来事です。秀頼に上洛して祝いを述べることを促したにもかかわらず、秀頼は拒絶したのです。もちろんこのとき秀頼はまだ13歳。拒絶は、後見の淀殿の意向によるものでした。このとき家康側から使者に立ったのは北政所(髪を剃って高台院)でした。淀殿が秀頼上洛を断ったのは、使者に立ったのが高台院だったからで、2人は犬猿の仲だったという説もあります。

ともあれ家康は豊臣家を滅ぼす意志を固め、神社仏閣の再興を勧めては豊臣家に湯水のごとく金銀を遣わせました。そのあげく難題を吹き掛けて、大坂冬の陣へと至るわけです。

堀を埋めて冬の陣の和議を結んだのもつかの間、またも難題を吹き掛けてきた家康に対し、大坂方は堪忍をこらえきれず、ついに大坂夏の陣が勃発します。協定どおりの外堀だけでなく、違法にも内堀までが徳川方によって埋められてしまった大坂城は、ついに落城します。秀頼と母、淀殿は山里廓にこもって自害し、炎の中に消えました。この最期の様子は、『桐一葉』の続編として書かれた『沓手鳥孤城落月』に描かれています。

参考文献 『桐一葉 鳥辺山心中 修善寺物語』(歌舞伎オンステージ24、藤波隆之編著、白水社、1992年)
『淀君』(人物叢書、桑田忠親、吉川弘文館、1958年)

祐天ファミリー50号(H17-2-15)掲載

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