明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(15)

『本朝廿四孝』武田信玄

祐天寺研究室 浅野祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『本朝廿四孝』

1段目
武田家の宝物、諏訪法性の兜を長尾(上杉)謙信が返さないので、両家は不和です。足利将軍源義晴の仲介で謙信の娘八重垣姫と、武田勝頼との婚姻が決まりました。ところが、義晴が何者かに鉄砲で殺されたので、犯人がつかまるまで3か年の期限付きで休戦となり、見つからない場合は、両家はそれぞれ息子の勝頼、景勝の首を討って差し出すことを決めました。

2段目
3年後、犯人はまだ不明です。武田勝頼は切腹して果てました。しかしその勝頼は、武田の家老で腹黒い板垣兵部が幼いうちに自分の子とすり替えておいた偽の盲目の勝頼だったのです。板垣は、本物の勝頼を探し出してきて殺そうとしますが、信玄に見破られて成敗されます。本物の勝頼は、偽の勝頼の恋人だった腰元濡衣とともに、諏訪法性の兜を求めて旅立ちます。

3段目
軍学者山本勘助に、2人の遺児がいました。兄横蔵はひと癖ありげに見えますが、実は深慮のある者でした。弟慈悲蔵は孝行で、母のために雪の中で筍を掘ろうとするほどでした。慈悲蔵はわが子を棄て、兄横蔵の子次郎吉を育てますが、次郎吉は実は将軍の遺児だったのです。のちに横蔵は山本勘助を名乗り、武田に仕え、慈悲蔵は上杉方に仕えることとなります。

4段目
信濃へ行った勝頼は、花作りとなり、濡衣は八重垣姫の腰元となって上杉の屋敷に入ります。許嫁の勝頼を慕う姫に、濡衣は、諏訪法性の兜を盗み出すことを条件に、真実の勝頼を引き合わせます。勝頼に謙信の討っ手がかかり、姫が兜に祈ると、姫に諏訪明神のお使いの狐が乗り移ります。姫は湖を渡って勝頼に危急を知らせに行きます。
将軍の暗殺者は美濃の斎藤道三だったことが知れ、道三は自害します。道三の打った弾は濡衣に当たり、濡衣は死にますが、濡衣は道三の娘でした。

5段目
勘助の計らいで武田・上杉両家の不和は収まりました。

信玄と信虎

武田信玄は大永元年(1521)11月3日、甲斐の戦国武将、武田信虎の嫡子として生まれました。母は、信虎の敵対者大井氏の娘で、信虎と政略結婚したのでした。
信虎は天文10年(1541)、信玄によって駿河に追放されました。

戦争を多く行い、家臣・国人の戦争負担が増大するにあたり、国人たちは自分たちの勢力を守るため、若くて御しやすい信玄を当主にしたほうが良いと考えたと思われます。家臣に担ぎ出されたにせよ、信玄は、父親を追放したという汚名を生涯着ることとなります。

政略結婚の功罪

周り中が敵である戦国時代に、いかにして味方を作っていくかということは存亡にかかわる重大事でした。最も信頼できるのは、血の繋がりです。

天文21年(1552)に今川義元の娘が信玄の長男義信に嫁ぎ、今川と武田との間に同盟が結ばれました。今川氏と北条氏との間も、信玄の斡旋で北条氏康の娘が今川氏真(義元の息子)に嫁ぎました。一方、天文22年(1553)には信玄の娘が北条氏政のもとへ嫁ぎました。こうして、武田・今川・北条の姻戚関係による同盟が成立したのです。これにより信玄は、南と東を気にすることなく、謙信との戦いに専念できることになりました。

信玄は公家の三条氏の娘を妻にしましたが、その間に生まれた嫡男義信を東光寺に幽閉し、自害させました。義信の妻は今川義元の娘でしたが、今川義元亡きあと弱体化した今川氏を攻めようとする信玄に義信が反抗したからであるなどと、いくつかの説があります。

父を追い、子を殺し、信玄は家庭的には不幸な人物だったと言えましょう。『本朝廿四孝』の中では信玄は(偽の)勝頼を切腹させていますが、これも、信玄が長男を殺したことがヒントとなって戯曲に作られたのかもしれません。

数々の合戦

信玄は16歳のときの初陣で海ノ口城を攻めました。父の信虎が攻めあぐね、帰陣するしんがりを引き受けた信玄は、急に海ノ口城を奇襲し、油断していた城兵を打ち破り、城を落としてしまったと言います。

戦に才能を見せた信玄は、それからも笠原清繁、村上義清など、多くの敵と戦いますが、最も有名なのは上杉謙信と戦った川中島の合戦です。この合戦は天文22年から永禄7年(1564)まで5回ありました。

元亀3年(1572)には三方原で徳川家康と戦い、大勝利を納めました。このため、江戸時代にも信玄は家康以上の大将だという評価がなされていました。

信玄堤

戦に強かった信玄ですが、領民の暮らしも考える領主でした。御勅使川と釜無川との合流する地点の水流を変え、堤(信玄堤)を築いて治水を行いました。

諏訪明神への信仰

信玄は八幡社や浅間神社、善光寺など、神仏への信仰を持っていました。それは出家して信玄と号していたことからもわかります。なかでも諏訪明神へは特別な信仰を持っていました。

「南無諏方南宮法性上下大明神」と記した旗を、武田軍の軍旗とし、特に神号の周囲に梵字を書いた旗は、信玄の護身旗だったと伝えられます。

『本朝廿四孝』に出てくる諏訪法性の兜の話も、信玄の諏訪信仰により所蔵していたという兜を元とした話でした。

天下への夢

天正元年(1573)正月、武田軍は三河の野田城を包囲し、やがて陥落させました。信玄は2月の末に野田を発って長篠城に入りました。このような信玄の動きは、浅井・朝倉を攻めていた織田信長の動きを牽制することとなりました。しかし、信玄はこの間に病魔に侵され、軍をそれ以上進めることができなくなりました。兵を収めて帰国することにしましたが、その途中4月12日、信玄は伊那の駒場で亡くなりました。53歳でした。

参考文献
『双蝶々曲輪日記 本朝廿四孝』(歌舞伎オン・ステージ、権藤芳一編著、白水社、2003年)
『武田信玄―伝説的英雄像からの脱却―』(中公新書、笹本正治、中央公論社、1997年)
『武田信玄』(人物叢書、奥野高広、吉川弘文館、1959年)
『甲斐の虎 信玄と武田一族』(別冊歴史読本、新人物往来社、2004年)

祐天ファミリー51号(H17-4-15)掲載

TOP