明顕山 祐天寺

論説

本朝芝居嘘実譚(16)

『本朝廿四孝』武田勝頼

祐天寺研究室 浅野祥子

 江戸時代に作られた歌舞伎・浄瑠璃には、日本史上のさまざまな史実・人間模様が素材として織り込まれています。
『本朝芝居虚実譚』と題するこの特集ページでは、各回芝居の登場人物1名を取り上げ、史実をいかに作者が利用したか、虚実がどのように使われているかを見てまいりたいと思います。

『本朝廿四孝』

1段目
武田家の宝物、諏訪法性の兜を長尾(上杉)謙信が返さないので、両家は不和です。足利将軍源義晴の仲介で謙信の娘八重垣姫と、武田勝頼との婚姻が決まりました。ところが、義晴が何者かに鉄砲で殺されたので、犯人がつかまるまで3か年の期限付きで休戦となり、見つからない場合は、両家はそれぞれ息子の勝頼、景勝の首を討って差し出すことを決めました。

2段目
3年後、犯人はまだ不明です。武田勝頼は切腹して果てました。しかしその勝頼は、武田の家老で腹黒い板垣兵部が幼いうちに自分の子とすり替えておいた偽の盲目の勝頼だったのです。板垣は、本物の勝頼を探し出してきて殺そうとしますが、信玄に見破られて成敗されます。本物の勝頼は、偽の勝頼の恋人だった腰元濡衣とともに、諏訪法性の兜を求めて旅立ちます。

3段目
軍学者山本勘助に、2人の遺児がいました。兄横蔵はひと癖ありげに見えますが、実は深慮のある者でした。弟慈悲蔵は孝行で、母のために雪の中で筍を掘ろうとするほどでした。慈悲蔵はわが子を棄て、兄横蔵の子次郎吉を育てますが、次郎吉は実は将軍の遺児だったのです。のちに横蔵は山本勘助を名乗り、武田に仕え、慈悲蔵は上杉方に仕えることとなります。

4段目
信濃へ行った勝頼は、花作りとなり、濡衣は八重垣姫の腰元となって上杉の屋敷に入ります。許嫁の勝頼を慕う姫に、濡衣は、諏訪法性の兜を盗み出すことを条件に、真実の勝頼を引き合わせます。勝頼に謙信の討っ手がかかり、姫が兜に祈ると、姫に諏訪明神のお使いの狐が乗り移ります。姫は湖を渡って勝頼に危急を知らせに行きます。
将軍の暗殺者は美濃の斎藤道三だったことが知れ、道三は自害します。道三の打った弾は濡衣に当たり、濡衣は死にますが、濡衣は道三の娘でした。

5段目
勘助の計らいで武田・上杉両家の不和は収まりました。

勝頼の出生

武田勝頼は、天文15年(1546)に信玄の第4男として生まれました。母の諏訪御料人は、信玄に滅ぼされた諏訪家の首領、諏訪頼重の娘でした。幼名は「四郎」でしたが、元服後に「勝頼」と名乗ります。この名前には、武田家代々の「信」という字が入っていません。このことからもわかるように、勝頼は武田家を継承する者としてではなく、母方の諏訪家を継ぐ者として期待されていたのです。

『本朝廿四孝』に出てくる諏訪法性の兜について、『甲陽軍鑑』に記述があります。それによると、兜の前立に「諏訪法性院上下大明神」と書いてあり、信玄から勝頼に譲られたもののようです。

勝頼には3人の兄がいました。しかし、長男義信は信玄の命で切腹、次男龍宝は生来盲目だったため出家、3男信之は幼時に死亡したため、武田家を継承する運命が4男の勝頼に巡ってきました。

後継者の苦労

信玄が西上の途上で病死したため、勝頼には信玄の足跡を継ぐ者としての重責がのしかかってきました。家臣団の中には、勝頼の相続を快く思わず、勝頼と織田家の姫、遠山夫人との間に生まれた信勝の成長を待って継承させるべきだと言う一派もいたのです。若い勝頼には家臣団の統率は難しかったらしく、信玄の時代と比べて勝頼の時代には、家臣の独立性が高まっているという資料もあります。また、武田家の滅亡期には、親族や譜代宿老層の離反が目立ったのでした。

勝頼は家臣らの反対を押し切るように戦に没頭し、遠江・高天神城を陥落させ、次いで長篠城を攻撃しました。しかし、長篠合戦では鉄砲3、000挺を揃えた織田・徳川連合軍にさんざんに打ち破られ、信玄以来の宿老はじめ1万もの死者を出して大敗してしまいました。

戦後、天正5年(1577)、勝頼は北条氏政の妹を正室(北条夫人)に迎えました。これは勝頼が甲相同盟の強化によって、敗戦後の体制挽回を意図したものと見られます。しかし、勝頼には、そののち甲越同盟を結んで甲相同盟を解消するなど、首尾一貫しない面があり、また力を強めつつあった徳川家康と対戦し続けるなど、判断に甘い点が見られました。

壮絶な死

天正8年(1580)暮れ頃より、勝頼は韮崎に新府城の建設を始めました。しかし、その城が未完成のうちから、親族・譜代家臣の離反が相次ぎました。天正10年(1582)正月、木曽義昌が織田信長に内通しました。2月には穴山信君が家康に投降しました。3月には小山田信茂が人質となっていた自らの老母を奪取したうえで、勝頼らに攻撃をしかけました。

信長の甲州攻めは着々と進み、勝頼は新府城に自ら火をかけて立ち退き、3月11日に鳥居畑というところで合戦ののち自害しました。享年37歳でした。ともに自害した北条夫人は19歳、長男信勝は16歳だったと言います。

参考文献
『双蝶々曲輪日記 本朝廿四孝』(歌舞伎オン・ステージ、権藤芳一編著、白水社、2003年)
『甲斐の虎 信玄と武田一族』(別冊歴史読本、新人物往来社、2004年)
『甲陽軍鑑』(腰原哲朗現代語訳、ニュートンプレス、2003年)
『武田勝頼』(柴辻俊六、新人物往来社、2003年)

 祐天ファミリー52号(H17-6-20)掲載

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